2006.2.6

當日は雪が降ってゐた。彼らはいつも昼間はこゝにゐるやうだ。私がかうしてカメラを持ってやつてくるのは、日曜日のこの時間だが、いつもゐるように思ふ。とはいつても、天気が變はつてくると一瞬目を離した隙にでも、どこかへいつてしまふが。

猫を見てゐると思ひ出す。私の實家のそばにも猫が多く集まってゐた場所があった。とはいへそれも、もう十數年前の話だ。今でも集まってゐるのだらうか。中に、人懐こい黒猫がゐた。その子をみかけなくなって、私の足はそこから遠のいていった氣がする。たとい、私が彼女(彼だったのかもしれない)にとって通りすがりの小學生だったとしても、彼女の姿態はひどく私を魅了したのだった。しかし私はなにか餌を与へたりといったことはしてゐなかったやうに思ふ。なぜだらう。

私の實家は猫を飼ふことは、商賣柄不可能だった。猫は爪とぎをするからだ。そしてそれを、本當に完璧に躾ける事は難しい。犬と違って非常に身輕であるから、家族は樣樣なことを危惧してゐた。諸々の理由から、私の家に猫が侵入することはほゞなかったのだった。

私は猫が好きだ。一緒に生活したい。しかし、不思議と私は猫に恐怖すら覚える。彼らは、きはめて人間に近いと感じるからだ。もちろん猫も十人(匹)十色、さまざまな性格がゐるのはわかってゐても…。彼らは、果たして私のやうな人間と一生を、ともに過ごすだらうか?きはめて限られた人間しかさうしないやうに、彼らはおそらく私の空間から立ち去っていく氣がする。寿命の理由ではなくて…。 

こゝまで書いてゐて気づいたが、私は少しづつ言葉を取り戻してゐるやうだった。私が六年ほど前の自分に戻るには、もうしばらくかゝりさうだ。(もっとも、本當に戻らうとしてゐるわけでも、今ある現實から違ふものを取り戻そうとしてゐるのでもない)

猫といふと、milkさんが以前飼ってゐた猫を、思ひ出す。(もうそのログは残ってゐない。私がかけたといふ言葉も、私は再現できない。当時の素直な氣持ちを述べたまでだった。慰めになったのかわからない。ただ、私はおそらくmilkさんの何万分の一かしか、その感情をわかってあげてゐられないが、それでも悲しかった。) 短い時間だからといって、パートナーを失ふことの重みは、變はらない。おそらく、實家のあの犬が死んだとき、私は自分の中の一部を殺してしまふのだらう。

私は弱いので、多くのものを殺してしまはなければ、悲しみに耐へられない。

私の中の多くのものだ。

話がそれたが、猫を撮った後、私は植木鉢を撮った。葉のしづかな青さを寫したかった。それから、仙人掌を撮った。二つ並んでいた。戸の向かふの雪が融けるのを待ってゐるやうに見えた。

私も誰かを待ってゐる。

その誰か、は、わかってゐても待つことが必要なのだ。