この季節の日暮れが高校生の頃を思い起こさせることについて

(2019年9月19日 22:20投稿)

今日仕事が終わって職場を出ると、さすがにもう外は真っ暗で(カバー写真はもっと日が長い頃です)、残暑もどこへいったのかというほど肌寒さを感じました。もう暦の上では秋になって久しいのですから。

 

この季節の、この時間の肌寒さを感じると、毎年私は高校生の頃を思い出します。なぜ高校生なのか。というと、ちょうどこれくらいの時期というのは各学校、学園祭(文化祭)の準備をする頃だと思います。それで暗くなるまで準備や打合せで残っていて、帰るころに校門でメンバーと駄弁ったり、そこでまた、と別れる時のことを思い出すのです。そうして校門のあたりで話をしているときの肌寒さが、どうにも私の高校生活の中でふと思い出させるトリガーとして記憶されているようです。

私は自転車通学でしたので、それは走っているときの受ける風の冷たさはもちろんあるのですが、それ以上にその場の、話をだらだらとして、いつ誰が「じゃあ帰るわ」と言い出すのかもわからず、なんとなく時間を過ごす感覚を思い出します。話に夢中で時間を忘れると言うほどでもない、なんとなく皆が皆、帰るタイミングを見失っているのではないかと思うようなあの微妙な感覚が、思い出として残っています。いいものでも悪いものでもない。

それが、毎年この時期になるとふっと思い出されるのでした。

 

いま私は自分の生活を楽しんでいます。仕事もプライベート(ほぼ写真)も含めです。しかし大学生以前の自分というのはまるで他人の記憶のように、単純に記憶が希薄というよりは、自己自体が希薄だったように思われます。一応表面上トラブルはなく生きていたのですが、どうにも今となっては他人のように思われます。

 

そんなころの私がカメラと出会っていたら、今のように楽しい日々を過ごしていただろうか。当時の自分が人生を楽しんでいなかったわけではないのですが、自分自身の「楽しさ」を表現できていたのかわからないのです。カメラと出会っていたら今の自分みたいになっていたか?それとも、もっとカメラを通じて、写真を通じて、違う人間になっていただろうか。

なんとなくですが、きっと歪んでいたんじゃないかと思います。写真を撮ることが楽しくて仕方ないであろうことは想像できます。しかし、きっと今以上に写真を撮ることが目的となってしまっていただろうと思います。今でも自身の性格の端々に存在していますが、私は「記録する」ということに執着しています。今は意識してコントロールしながら記録という行為をブレンドしていますが、以前はメモにせよ写真にせよ、記録を残すということに対して、心の衝動が強いものを感じていました。それを当時の、若い私がコントロールできたとは思えない。

 

ですから、当時カメラを始めていたら、人間関係を作ってから撮るべき・撮れるであろう写真を、焦って撮ろうとして、関係を破綻させていただろうと思うのです。今でもそのようなことがないよう気を付けたいとは思うのですが、やはり自分自身の核はそう変わらないと思っているので、時折自戒しています。

他人を介在した写真をもし、作品として私が仕上げるのであれば、その人と何かしら話をして、相通じるものを得てから撮った方がいいのだろうなと思います。ただその一方、逆に相手の持つものをそのままに存在させた写真も面白いだろうとも思っています。最終的に、私が気持ちいい、楽しいと思える写真になればいいのですが、いやその予定もないのです。

それでは、よき写真生活を送られますよう。

まちの写真を撮ること

2019年9月18日 21:51投稿

石川県に移り住んで、もう15年ほどになります。かたくなにこの地から離れないのはお魚が美味しいからです。上等な蟹やブリでなくても、普通にスーパーで売っている魚(刺身)が美味しい。北陸最高です。

そんな感じで、実際のところ郷は滋賀県というところなのですが、いまの私の仕事柄、石川県郷土に関することで調べものをしたりすることが多いです。自分にとって郷土と呼べるほど、中に根差したものを持っていないけれども、そういったものに関わっていかねばならないというのはいまだに苦労しています。

仕事で写真を撮ることはほぼないのですが、自分が写真を趣味にしていると、自然と自分が好んで被写体に選んでいるもののひとつに、街並みというものが存在することに気づきました。自己紹介の記事で、

私の写真は大きく分けて、記録としてのものと、対象として撮ったものと、感応したものの三つに分けられます。

と申し上げました。私が街並みを撮るときの多くは、この三つがブレンドされています。撮ろうと思うときは「対象として撮ろう」として、ファインダーを覗く・もしくはシャッターボタンに指を持っていくとき(つまり、「よしやっぱり撮ろう」と思ったとき)は何かしら「感応したもの」をわずかながら吸い込みながら撮ります。そして撮って、上がってきた写真を見ると、それは最終的に街並みの「記録」としての意義を持ってきます。

記録としての意義、それは私にとっては今現在の街並みの姿を残しておくことです。なんだか普通ですね。けれど、冒頭に申し上げましたが、郷土の調べものをしているとき、こういった何気ない街の風景、どこにどんなお店があったとか(また、その業態とか)、人はどんな服装をしていたとか、どんな交通事情が垣間見えるかとか、看板・ディスプレイのデザイン、どんな樹木が植えられているとか、ほんとうにたくさんの情報が詰まっています。そこに私の感情や感傷が存在していようがいまいが、記録としての意義は揺らぎません。

意義は誰に掲げるものでもなければ、誇示するようなものではないと思っています。その人がそうしたいなら信念として持っていればよい。感情や衝動、その人の強い色を乗せた街並みの写真は、それはそれできっと素敵な写真になるだろうと思っています。ですが私はたとい実家の滋賀県であったとしても、いま金沢などの街並みを撮っているのとそう変わりのないものを生み出すだろうと確信しています。自分の生まれ育った地であるということが、果たして自分にとっては強い想いとなるだろうか。それはないように思われました。全く何も感じないわけではありませんが、自分というものの薄みが、却ってどの街中で私を空気にしてくれたら、と願っています。こうしてここに挙げて書いていることで、意義を振りかざしているのかもしれませんが、私は自分自身のことだけを考えるのでいっぱいの人間ですので、それを見ているのもそう多くはないと思います。けれど。

いずれ、(記録としての)意義は意味を持ってくるんじゃないかと思います。それを見出すのはもう少し未来に(これが残存していれば)この写真を見た人や発見した人がすることなんだろうなと思いますので、自分はやはりただ撮ろうと思ったもの、今回の話では街並みになりますが、それをフラットな、素直な気持ちでただ撮ればいいのだと思います。街並みの写真は、撮った直後、たとえDfやD200で見てもあまり達成感などは感じません。帰ってからとか、数日後、下手したら数週間後や数か月後にふと見直すと、そのときの季節の感じも相まって、なんだか街並みそのものを懐かしく、親しみを持って眺めてしまうことがあります。そういうものなんだなと思います。ですので、同じ場所を違う季節で撮り続けることは、私にとって楽しいことの一つです。

街並み写真ごときに郷土を見出すんじゃない、なんて言われるかもしれませんが、私にとっての例えば十年間の見ている景色は、仮に出身地元の十年間の景色と比較したとしても、そう重みは変わらないように思えるのです。考えが浅いでしょうか。けれど私が写真を通して見る姿というのは、ある意味感情さえも希薄なのかもしれません。だからドラマにはならない。しようともしていない。

どのような形で遺していくかは、また別の話です。これこそ撮ったきりでは、電子データの藻屑となるでしょうし、ネガも保管に気を遣うべきでしょうし。

あくまで今回も、私の中の心の動きやバランスのお話でした。何かのテーマについて述べるということは難しいので、だいたいが自分語りになります。ここまで読んで下さった、根気強いあなたに感謝いたします。

それでは、よき写真生活を送られますよう。

写真の感じ方

2019年9月17日 20:34投稿

常日ごろ、自分の感じるもので結構頭がいっぱいな私ですが、それでもたまに他の人が、どのように他の人の写真を鑑賞して(あるいは見て感じて)いるのか気になることはあります。自分の写真に対して、という意味ではなく、例えばTLを流れる様々な人の写真だとか、写真展で展示されている写真に対してです。その二つに大きな差異があるのは承知していますので、ここで述べていることの多くは前者ということにしましょう。

私は他人の作品を批評しようという思いがあまりなく、自分がそれを見て何か感応するものがあるかどうかということが大事です。感応しますか、イエス。なら、何が私の内部のどこかを揺り動かしたのか。それを探ることが、私にとっての鑑賞行為と言えます。作品を探るという形もとっているようですが、その実、私は自身の心の臓腑を探っています。

要素として拾い上げやすいものは色(色相と彩度)、コントラスト、モチーフ(対象)、視線の誘導、構図またその流れ、モノクロだと階調とその色合い、そして世界観、ストーリ性などがあります。

これらを言語化して自分を納得させる必要はないとは思っています。人に説明する必要がある場合は、言語化しようと頑張りますが、自分に対しては、楽しめたかとかそこに居たいと思ったかとか、居られたかとか、そういうことを問うのみです。作品の中に入るイメージで楽しむこともあれば、外から眺めるイメージで楽しむこともあります。楽しむというのは、気持ちいいと感じたかどうかです。気持ちよさ、心地よさが私にとっての尺度のひとつになっています。

要素として挙げにくいですが、今言った、作品に近づいて(もしくは引き付けられ)といった鑑賞行為の中で、具体的なポイントがわからないけれどもただ居心地がよい、それだけで心酔してしまうような写真に出会うことがあります。不思議とそこまでいく人の写真は、他の写真の多くにも同等の思いを抱くようです。その人の感性の湯水のようなものに浸かっていることに気づかされます。穏やかなものもあれば、ドラマティックなものもありますが、それが世界観というものかもしれません。

自分が好きな傾向を決める必要はないです。ただ色んな人の写真(実際は写真だけではありませんが、ここではそれに絞って挙げます)を見て、浴びます。作者の意図などを無理に汲もうとすると、私の場合は頭を使ってしまうので無理です。私の場合はただ見て、自分自身が何を感じているかを問うのが一番いいように思います。なので、人とのコミュニケーションの多くは言葉のやり取りですから、その中でなんだかんだと「私はこういうのが好きなんですよ」と言うこともあるかもしれませんが、それだけが好きなわけではないのだよと自分には言っています。

作品のバックグラウンドを聞いたり、作者の意図や想いを聞いて何か感じたり、改めて作品を見て思うことは、今回お話した「私の感じ方」というのと別のことです。第一印象のようなものです。そしてそれが作品のすべてというわけではない。ネット上だけでもあふれかえるほどの作品がある中、それぞれにどこまで付き合うかは自由ですし、やり過ぎると疲れてしまうので、ほどほどにするのがいいでしょう。自分自身の作品とはじっくり向き合うことは大事だと思います。

自分の感応するものを日々見ていくと、いや、ものをみているのではなく、感応している自分を見ていくと、特定のいち要素に対してというわけではないことがわかってきます。そんなとき、ひとは、自分の好きなものをどのように説明しているのだろう、と思います。私の好きは多様に渡り、きっと多くの人だってそうなのだろうと思うので、説明しきれないのではと思うのです。

しかし、先日幾人かの方に言われたことで、なんとなく言葉という形になったものはありました。「薄明さんの写真を見るとこういう気持ちになるから好きです」、という表現です。つまり、幾人かの人は私の写真を自分のお腹にいちど置いて、その感じがよいと言ってくださっているように感じました。遠目からでも惹きつけられるとか、目を引くという表現はないし、私自身もそういう写真ではないとわかっています。それでいても、手に取って一度自分の近くに引き寄せて下さっているということが、とても嬉しかったです。(もちろん私の撮る写真はいくつか種類があるので、すべての写真がというわけではなくて)あらためて、私の写真に目を留めてくださった方々にお礼申し上げます。本当なら、お一人お一人に直接お礼を言いたいくらいです。

しかしまた長くはなったものの、やはり言い尽くせていないような感覚がいたします。また似たような話を書くかもしれません。言葉はいつもままならないものです。

それでは、よき写真生活を。

私の独善的な写真への処方

2019年9月16日 21:32投稿

自己紹介でも少し申し上げましたが、私の写真はとても薄味で、地味なものです。ドラマティックな、華やかなものからは離れたものになっています。意識してそうしているのではなく、少しはきらびやかなものを撮ろうとしても、どうも地味になってしまう、それは私の心根が写されているのだとも思います。もっと若い時に写真の世界に触れていたら、ここで妙な反発心を抱いていたかもしれません。もっともっと人目を引いて、いいねをもらえるような、と。今でもその気持ちは零ではありません。

ですが私にとっては自分とカメラが対話して生まれた写真たち、それらは地味であっても大抵いいなあと思うものです。いいなと思ったものを撮って、いいなあと思える。それで私の中ではある意味完結しています。地味なものは地味なものでよく、それが自分にとって好きかそうでないか、また個々の他人にとって好きかそうでないか、それらは別問題であるということを受入れられています。要するに、私にとっての写真は、私にとってどうか(気持ちいいか)という評価基準こそが絶対で、他者の『共感』(もしくは『反感』)というのはその評価に影響を及ぼすものではないことが正しいということです。実際は私も人間ですので、多少の感情の揺れは否めませんが。

明確にそのことを意識したのはここ数年のことかもしれません。自分の創作するものが広く受け入れられるものではないことはわかった、けれどそれに対して私はどのような気持ちを持つのが、自分にとって正しいのか。そのことを静かに思索しておりました。今現在の私の結論としては、私の創作は自分の世界であり、それは自分こそが中心となって形作ることだ、となりました。どこまでも独善的であるべきだと。これは昔の私と逆の考えです。独り善がりな作品は皆の共感を得られず、自己研鑽の方向性も掴めぬまま、ただ堕落する一方だと怖れていました。(少なくとも家族は全面的に私の詩作にせよ文章にせよ絵、写真を全肯定してくれていましたが)

創作行為やそれに対するスタンスが独善的であることは、その作品の質を決定づけるものではないのだろうと思います。外に評価を求める場合は別だと思います。商業が絡むとさらにいろんな人のことを考えねばならなくなります。どのような対象・範囲・基準で評価されたいのかを分析し、それに応じたものを出すか、すべてを圧倒するようなものを作るかでしょう。私にはどちらも途方もない話なので他人事です。私は否定されて(また周りと比較されて)育ってきましたので、今からでも自分の生み出すものを、自分の感性を肯定したいと思っています。

とはいえ、単純に自分だけがいいと思い続けられるのもひとつの心の強さだと思っています。私にそれはなかったから、長いこと苦しんできた過去がある。どこかでまったくの他人に、少しでいいから肯定されるきっかけを得るというのは、思った以上に大きなものでした。

私の場合、神楽坂で個展をやらせてもらったときに、詩を数十点出しましたが、知らない人にその場でとてもいい、と言葉を頂戴したこと。また別の個展で詩集(の前身のようなもの)を少部数販売していたら、売り切れた後も他の方から欲しいと言っていただけたこと。そしてTwitterで、あまりリプライのやり取りもなかった方も含めていろんな方から、信じられないほど評価をいただいたこと。個々の方の思いはそれぞれでしょうが、私にとっては大きなことでした。私の心を外から強くしてくださった。

私の薄味の写真の裏は、「私、薄明がいいと思った」という文字面だけを見れば傲慢なものですが、それゆえに以前より純粋さを増しています。そんな写真を見ていいなと感じて下さる方は、きっと私と近しい領域を共有できる方と思います。そんな人たちの写真も見たい。

私の写真の見方、私の世界の見方、私にとって写真を撮ること、はじめての詩集(薄明詩集Ⅰ)、各カメラ、各フィルムといったテーマはそれぞれまたの機会に書きたいと思います。どれも何度か書いていることですが、その時の自分で改めて書き出すという行為は私にとって一種のトレーニングになっていますので、読む方がいなくても書くと思います。つい長くなってしまうので、ここまで読んで下さる方もそういないと思いますが、言いたいことがまとまりつかずすみません。

それでは、皆さま、よき写真生活を。

はじめまして

某所からの転記をしておこうと思う。全部を移す必要はないだろうが、とりあえずここが最終的なアーカイブになるかもしれない。


2019年9月16日 13:27 

自身について書き始めたら、きっとそう面白くないことであっても、それなりの分量になると思います。何の特徴もない人生だから書くことなんて、と言う人もいますが、記録的に自分を顧みると意外とあるものです。

私の写真は人物のポートレートを撮るわけでもなければ、風景絶景をがっちり撮るわけでもないですし、ストリートスナップにしても中途半端なものが多いし、とにかくSNSで目立って惹きつけるタイプの写真を撮る人間でもありません。かなり地味で、薄味で、何を撮ったの?と言われそうなものも多いようです。なんかいいなと思ったら撮るというような感じで、こういう構図やタイミングでという事前のイメージを作ることができないのでした。これは、私が人の顔や名前などを覚えられないのと同様、事前の想像力(創造力)の欠如というのが、個人的な欠陥と言われています。交通事故を何度かやっているので、その後遺症とも言われていますが、取り戻せるわけではないのでもはや気にしていません。

しかしながら、Twitterで写真を毎日アップしていると、ちょくちょくとお声をかけていただけたり、評価してくださる方もいらっしゃって、最近とても嬉しいです。私の写真は大きく分けて、記録としてのものと、対象として撮ったものと、感応したものの三つに分けられます。切り分けてはいても、私が撮るものですから、そこから自身の感性を完全に除去はできませんので、記録的なものであってもやはり私の写真ではあります。いずれにせよ、どれかに共感してくださるということは、それは私の「なんかいいな」という感覚に近い領域をお持ちということで、私からも親近感を覚えます。ありがとうございます。

フィルムカメラはちょうど一年ほど前、つまり2018年の9月頃から始めました。デジタルカメラは写真を趣味として、という意味であれば2005年頃からです。2005年12月、発売と同時にNikon D200を購入して、写真にはまっていきました。途中休止期間を経て、二台目のカメラとして2018年6月にNikon Dfを購入しました。フィルムカメラはNikonのが一番多いとはいえ、いろんなメーカーのいろんなレンズを試してみたいという思いから、一年で数十台も集まってしまいました。どれが一番というのも難しいくらい、どれも好きなカメラです。きっとそれぞれ撮れている写真に違いはあるのでしょうが、何分薄味な写真ばかりなせいか、そこまで差が出ていないようです。さすがに中判カメラのゼンザブロニカS2は違うと思いますが。

 

何にしても、撮ることが楽しいし、楽しく撮っていきたいと思います。記録としての写真という形で、街並み(特に金沢)を撮っています。何十年か先に、風俗資料の一つとして、人によっては役立つかもしれない。記録写真は派手さはないですが、量が質となっていくということを、私は20代の頃思い知りました。なので撮っています。

のんびりとやっていきたいと思います。写真とかもピックアップして載せたりしてみたいです。では良き写真生活を。

私は石ころみたいな写真が撮りたい

誰もが、みんなが、すごいねとかいいねとか思う写真を撮りたいわけではなくて、
誰しもが目にしているもの――

子どもの頃、道端に落ちているなんかいい感じの石ころを集めていた——

あの「石ころ」みたいな、なんかいいな、いいよねが通じるような
写真が撮りたいのだ


Twitterに書くにも、noteに書くにも、どちらにも中途半端な内容だった。ここがあった。けれど中身は今日なぜかことばに、形になってくれたものだ。私の撮る写真、撮りたい写真がそんなきらきらとしたものでもなく、ソリッドでかっこいいものでもないことは明白だったけれど、ただ退屈な、何を撮っているのかわからないものだということはわかっていた。けれどそれを言葉にして、こういう写真なんですと説明ができなかった。

私は石ころみたいな写真が撮りたい。

今日ふと通勤中の朝日の中を歩いていて、そうだ、石ころだ、石といっても、子供心に魅かれる石はいろんなものがある。つるつるとまるいもの、ごつごつとしたもの、一部に透き通るものを含んだもの、不思議なカーブを描いたもの、それこそ、こうして挙げきれないくらいいろんな石がある。けれど、大多数の人間にとって、決してその子供心の感動は等しく通じはしない。

けれど私が撮る写真、写真を撮る行為はそれに近しいものだということに気づいたのだった。

全ての対象を石ころだと言い放つわけではない。けれど、私が私らしい写真を撮るとき、それはなんだか宝物をになりそうな石ころを見つけたこころもちで、シャッターを切っているに違いないのだった。