思ひつきは聲に出せ

平成二十九年が明けた。私は筆立てのことを考へる。普段使つてゐるボールペンや、鉛筆に、まだ使つてゐないボールペンの替芯、鉛筆、螢光ペンなどが並んで立つてゐる。他にもハサミや芯の入つてゐないペン軸、掃除用の歯ブラシなんかが立つてゐる。それらとは別に、普段持ち歩いてゐる筆入れもあるが、彼らは一軍である。對してここに立つてゐるのは二軍と云へる。替芯は横にして抽斗に仕舞つてをいた方が良いのか、立てておいたほうが良いのか迷ふところだが、一應目につくやうにしてある。

思ひつきをすぐにメモにしたゝめるひとを尊敬する。私は思ひついたところで、頭の中をぐるぐると廻つて、ペンを手に取り紙に書き下ろすところまでで、その大半が失はれてしまつてゐることが多い。かうしてゐる目の前にもメモとペンは確かに存在するのだが、いざ目の前にあると思いつくことがあまりない。矢張り、考へごとは歩きながらするのが私には最も合つてゐる。特に思ひ浮かぶのは實家の近くの田圃道である。家族はさうは思つてゐないだらうが、私はそれなりの頻度であの辺りを歩いて考え事をすることが多かつた。しかし、その場で書き留めやうとも、立つた狀態で文字を上手く書けない私は却つてその苛立ちが強くでてしまひ、結局考へてゐた内容の幾分とも再會し得たためしがない。

最近の携帯電話は簡單に音聲メモが採れるのだから、それを使へばいゝのだが、それも結局携帯電話の電源を入れてアプリケーションを立ち上げてとしてゐるうちに、同じことになる。何故かうなのだらう。

私がもう一人居ればと思ふ。頭の中で語り合つても、記憶の定着は中々難しい。しかし実際に聲に出すといふことは、アウトプツトと同時に、自分の聲がまたインプツトされ、頭で記憶処理されるから、その効果は多重的で極めて大きいと思ふ。これは私が人の勉強をみる機會には度々口にすることである。しかしながら、自分ひとりで、しかもそれが創作のことであつたりすると、他人にあれほど云つてゐたことがあつさりと忘れ去られてしまふ。だから、もう一人の實在する自分と語り合ひながら、考えをまとめ上げることが出來たら樂だらうなあと思ふのであつた。

しかし現實的にはやはり立つて書き留める能力を磨くか、あるいは聲に出し續けるたり記録したりするしかないのだ。多分。

あと螢光ペンは使ふ機會が少なく、替芯がいつまでもそこにあるのが、落ち着かない。

思ひつきは聲に出せ

なにがし

「某○○」といふ名の挙げ方を、あらゆる文脈に於いて我々が使ふとき、そこには言外に相手への共感の強要や、勿論わかつてゐるだらうねといつた、伏せることで逆にその對象を強調したい思ひが垣間見える。

いや、すべてがさうだとは云はないが、それにしても私たちはその「ボウ」といふ音を發するとき、渦中の「某」からは距離を置いたふうな態度を取りながらも、その距離が自身の優越であるかのやうに振る舞ふ。

なにがし

過去日記・散文からの発掘

このサイトはアドレスはいくつか転々としつゝも、1997年頃から續いて来た。日記を飛び飛びながらも書いてきて、それこそ十代半ばの危険な頃から現在に至るまで、内容については過去といふ歴史上から削除したいものも多々あるが、それが逆に自身の創作に使へるのではないか…所謂「黒歴史」と称されるやうなものが、今私の詩作になにか齎してくれるのではないかと、HDを漁ってみた。恐ろしいことにデータは全て残ってゐた。途中MovableTypeなどで作ったデータについては確実ではないが、元々はメモ帳でHTMLを手打ちしていたので、その辺りはしっかり残ってしまってゐる。少しずつ讀み返して、私は吐き気を催した。よくもこれだけの文章を公開してきたものだと思った。しかし今も同じことをしてゐるではないか、まるで成長してゐない…。半分は内臓を抉られるやうな苦痛を感じながらも、もう半分はいっそ開き直らう、これでいゝではないかと自身が呟く。そう、これでいゝのだ。あとは再利用できさうなものを拾ってくる作業である。

今後タグに「過去発掘」としたものは、過去日記や散文からの抜粋である。内容としては日記ではないので、散文として讀むのがいいだらう。

過去日記・散文からの発掘

LETTER

先のエントリで、私はコミュニケーションを求めてゐない、忌避してゐると書いた。しかしそれが100%ではない。私は人との繫がりは求めてゐる。自分の処理しきれる人間関係を持つべきだと感じてゐる。SNSで大規模なタイムラインを追ひかけ、關心の範疇に言及するといふ網を投じ、かかる人々…多くはその仮想人物像、いや仮面に迅速な遣り取りを互ひに求め合ふのは私には巨大な負荷となることが時折ある。(仮想人物像はあくまで造られたそのもので、私たちはその仮面の向こうに人間が居ることを承知で會話してゐる) さういふ意味では、手書きの手紙の(堅くない)遣り取りがそのスピードや頻度においても私の性に合うといふのも自身に納得の行く話である。しかしかといつて、SNSから離れるのを寂しく感じるのは、私もこの微温い毒に浸かりきつて長いからだらう。もっともネットワーク上の繫がりを軽視してゐるわけではない。あくまで私自身の処理能力が追い付かないことのもどかしさを言ってゐるのである。

 

喪中葉書を出すのに過去に戴いた手紙や葉書を取り出し、つい遡って讀んでいると、丁度十年前私宛に呉れた友人の手紙を見つけた。その後も今に至るまでずっと手紙での遣り取りをしてゐるが、たまたまその書かれた日付がその日だつたのである。それで私は葉書ではなく手紙でお知らせすることにした。あわせて近況なども。知り合つた當時私たちは大學生で、卒業してからも變はらず遣り取りを願ひはしたが、それが一方的なものでなかつたのだとすれば私は非常に幸運を感じる。環境が變はれば、遠く離れれば、やがて人の緣は薄くなつてしまふものだと、私は思つてゐた。無論このあとのことはわからないが、残してゐる手紙を讀み返すと、その度元氣を戴いたことを思い出すし、それを忘れてはならないと思ふのであつた。

他にも何人か、さういつた遣り取りをしてゐる友人がゐる。氣にはなつてゐる。返事が返つてくるかわからないが、書いてみようと思つた。十年經つてもまだ、私は私のこころの在り樣を捉えやうとしてばかりで、いつまでも一人前の人間になれずにをりますよ、と。

LETTER

Communication evasion

 

miuportさん(@miuport)が投稿した写真

 

コミュニケーション忌避を直訳したらば、題のやうになつた。

私は特定の話題であつたり、自信がない事柄について、SNSでのコメントはしないやうにしてゐる。時々反射的にしてしまつて後悔することもあるのだが、いや後悔ではない、思つたことを書いて反應したのは自身の意見なのだから間違つてはゐない。後悔ではないが反省である。ただ、そのことが大抵の場合、相手の氣分を害せしめることが多く、激しい反撃に遭ふことになる。私は多くの場合、コミュニケーションを求めてはゐない。自身の意見をまとめやうとして、つい言葉を發してしまつてゐるのである。

SNSではかういつたメンションは、たとい引用文といふ形においても、原文あるいは引用者に対する直接的な返答や言及ととられがちで、内容によつてはそのつもりがなくとも、喧嘩を賣つてゐるかのやうにとられてしまふことさゑある。それが私にとつてはもどかしく、またおそろしい。思ひがあれども、言葉にしないその姿勢を、卑怯だと罵られるかもしれない。

SNSに書くとどこに書いたかわからなくなるので、できるだけここに書いておきたい。しかし実際のところ、態々ここで他人の目を意識して書くべきなのか? そうでないなら手元にある日記帳(手書き)で事足りるのだが。ここは見る人も少ないのでSNSよりはだらだらと長く書いてもいいという利点はある。

あらためて續きをかいた。

Communication evasion

You Can’t Stop The Beat

今日のつぶがきは、歌詞を書き写してた この歌好き

A post shared by Kappa (@kappa_am) on

 

映画「HAIRSPRAY」のフィナーレを飾る曲、「You Can’t Stop The Beat」が好きなので書いてみたが、アルファベットがまた日本語とは変わって筆運びが難しい。しかも今みたら歌詞をちょいちょい間違っている。また練習しよう。

 

 

クイーン・ラティファの歌声が伸びやか。映画にはジョン・トラボルタ、ミシェル・ファイファー、クリストファー・ウォーケンなどなど…皆歌って踊って、楽しい映画でした。

You Can’t Stop The Beat