葡萄、夜白

「熱を冷まし、静粛な気持ちをうながす夜で、私はそこに心なく歩む風なのでありました。その物語では夜は白く明るく、まちの人々はさらさらとした葡萄のような色を、いっとう愛しておりました。」

冬の樹木

薄暗い二重の薬莢が、
灰のよな空をずつと固定してゐる
まばたきをするたび、
私のちいさな悲鳴が指を打つてゐる

樹々はごうごうとさわぎ、
ざわざわとうわさ話をし、
やがて葉もなくなった頃に
いつだつたかあんな人がゐたねと
懐かしむのだつた。

薄明(2020.2.20)

文字を求むる

ひたたる水にそうっと挿してゐる、
あれは行方のない若い頃のわたしだ。
冷たい水に足をのばし、
ふわりと腐つたやうな泥に、
少しづつとらはれてゆくのを、
今のわたしは見てゐるほかない。
たゞその沼を渡らうとするその先に、
欝蒼とした森がたくさんの文字を蓄えて
深緑のくちをゆらゆらとひらいてゐる。

たとい水が冷たくとも、
私の、文字に對する飢ゑは
喉をかきむしるほどに、
擂鉢に穴ひらいてゐるのだつた。

石を置く

彼の花が狂つてしまつた朝に
その石を置いたので、
日蔭で笑つたかほに、
日なたにかほをしかめる様子に、
たゞ五歩ばかりの距離を置いて
見つめてゐた。

石が表情をかへるたびに、
私はペエジをめくつては、
そこに書いてある詩を音讀して遣り
かつての花の、そして今のその姿を
受入れられぬことを
少しかなしくなつて泣くのだつた。

薄明(2020.2.20)

私は石ころみたいな写真が撮りたい

誰もが、みんなが、すごいねとかいいねとか思う写真を撮りたいわけではなくて、
誰しもが目にしているもの――

子どもの頃、道端に落ちているなんかいい感じの石ころを集めていた——

あの「石ころ」みたいな、なんかいいな、いいよねが通じるような
写真が撮りたいのだ


Twitterに書くにも、noteに書くにも、どちらにも中途半端な内容だった。ここがあった。けれど中身は今日なぜかことばに、形になってくれたものだ。私の撮る写真、撮りたい写真がそんなきらきらとしたものでもなく、ソリッドでかっこいいものでもないことは明白だったけれど、ただ退屈な、何を撮っているのかわからないものだということはわかっていた。けれどそれを言葉にして、こういう写真なんですと説明ができなかった。

私は石ころみたいな写真が撮りたい。

今日ふと通勤中の朝日の中を歩いていて、そうだ、石ころだ、石といっても、子供心に魅かれる石はいろんなものがある。つるつるとまるいもの、ごつごつとしたもの、一部に透き通るものを含んだもの、不思議なカーブを描いたもの、それこそ、こうして挙げきれないくらいいろんな石がある。けれど、大多数の人間にとって、決してその子供心の感動は等しく通じはしない。

けれど私が撮る写真、写真を撮る行為はそれに近しいものだということに気づいたのだった。

全ての対象を石ころだと言い放つわけではない。けれど、私が私らしい写真を撮るとき、それはなんだか宝物をになりそうな石ころを見つけたこころもちで、シャッターを切っているに違いないのだった。

各種SNSとここの使い分けに悩んだり

最近noteをはじめてしまったので、じゃあこちらには何を書くか、みたいなことになる。あちらは寫眞中心、こちらは詩中心だろうか。今までもしばしばこういうことになって、結局どっちつかずのまま続けられなくなるということがあった。

結局のところ、継続するのが一番大事なのはわかってはいるが、しかし言葉をいくらでも綴れるかというのは難しいと思う。ただ、noteは現状いいサービスだとは思うが、あくまでサービスである以上、サーバーを借りて自分でブログを設置しているのに比べると、最終的な自分の管理権限というか、そういった感覚がちょっと薄い。なので、あくまで主体はここでありたいと思う(広い目で見ればここだって似たようなものかもしれないが)。相手の都合で仕舞わざるを得ない、ということを想像すると、そう考える。

それよりもInstagramの方がいま、やっている意味の比重が軽くなりすぎている。撮る枚数が増えてきて、PCからの投稿が簡単なTwitterが主なSNS運用に移ってしまい、Instagramは後追いであげるようになった。となると毎日Twitterで10枚以上アップしている私は、Instagramでハッシュタグをつけながらアップロードできるか、というと、結局面倒になってしまった。いまアップロードしているとはいえ、毎日ではない上に、ハッシュタグもキャプションもほぼないことの方が多い。そして一気に3枚ずつとか、9枚ずつとかあげてしまう。しかしそれでもTwitterの方が上げる勢いが大きい。

なのでInstagramへのアップロード待ちが400枚とか500枚という状態がざらになってきている。さすがにTwitterにあげたものを全部後追いでアップロードはしない方がいいのかもしれないと思い始めた。前はもう少しペースがゆっくりだったのでちょうどよかったのだが…。

それでもやめようとまではいかないのは、やはりTwitterでは繋がっていないけれどInstagramで繋がっているリアルの知り合い、旧友らとの一種生存報告的なSNSになっているからだと思う。一昔前はFacebookがそうだったのだろうけれど、今やInstagramもFacebook傘下だし、あまり変わらなくなった。運営の性質もFB寄りになっているのだろうと思う。

Twitterもいまはばんばん写真をあげているが、この先はどうなるかはわからない。使い勝手もいつかわるかわからないし、使っている人たちも流動的だ(昨日いいねをくれた人が今日ブロックしてくることだってある)。また新しい類似のサービスが生まれたりするのかもしれないが、どうなるだろう。そういったSNSとは別に、やはりこういうサイトはあった方がいいなあと思う。ここで商売をしているわけではないから、あまりルールもがちがちに決め過ぎないでいいだろうと思っている。

結論が出たわけではないが、せっかくカテゴリも作ってあるのだし、結局のところここでも写真についても書くのだろうなとぼんやりと思った。