文字を求むる

ひたたる水にそうっと挿してゐる、
あれは行方のない若い頃のわたしだ。
冷たい水に足をのばし、
ふわりと腐つたやうな泥に、
少しづつとらはれてゆくのを、
今のわたしは見てゐるほかない。
たゞその沼を渡らうとするその先に、
欝蒼とした森がたくさんの文字を蓄えて
深緑のくちをゆらゆらとひらいてゐる。

たとい水が冷たくとも、
私の、文字に對する飢ゑは
喉をかきむしるほどに、
擂鉢に穴ひらいてゐるのだつた。

文字を求むる

石を置く

彼の花が狂つてしまつた朝に
その石を置いたので、
日蔭で笑つたかほに、
日なたにかほをしかめる様子に、
たゞ五歩ばかりの距離を置いて
見つめてゐた。

石が表情をかへるたびに、
私はペエジをめくつては、
そこに書いてある詩を音讀して遣り
かつての花の、そして今のその姿を
受入れられぬことを
少しかなしくなつて泣くのだつた。

薄明(2020.2.20)

石を置く

私は石ころみたいな写真が撮りたい

誰もが、みんなが、すごいねとかいいねとか思う写真を撮りたいわけではなくて、
誰しもが目にしているもの――

子どもの頃、道端に落ちているなんかいい感じの石ころを集めていた——

あの「石ころ」みたいな、なんかいいな、いいよねが通じるような
写真が撮りたいのだ


Twitterに書くにも、noteに書くにも、どちらにも中途半端な内容だった。ここがあった。けれど中身は今日なぜかことばに、形になってくれたものだ。私の撮る写真、撮りたい写真がそんなきらきらとしたものでもなく、ソリッドでかっこいいものでもないことは明白だったけれど、ただ退屈な、何を撮っているのかわからないものだということはわかっていた。けれどそれを言葉にして、こういう写真なんですと説明ができなかった。

私は石ころみたいな写真が撮りたい。

今日ふと通勤中の朝日の中を歩いていて、そうだ、石ころだ、石といっても、子供心に魅かれる石はいろんなものがある。つるつるとまるいもの、ごつごつとしたもの、一部に透き通るものを含んだもの、不思議なカーブを描いたもの、それこそ、こうして挙げきれないくらいいろんな石がある。けれど、大多数の人間にとって、決してその子供心の感動は等しく通じはしない。

けれど私が撮る写真、写真を撮る行為はそれに近しいものだということに気づいたのだった。

全ての対象を石ころだと言い放つわけではない。けれど、私が私らしい写真を撮るとき、それはなんだか宝物をになりそうな石ころを見つけたこころもちで、シャッターを切っているに違いないのだった。

私は石ころみたいな写真が撮りたい

各種SNSとここの使い分けに悩んだり

最近noteをはじめてしまったので、じゃあこちらには何を書くか、みたいなことになる。あちらは寫眞中心、こちらは詩中心だろうか。今までもしばしばこういうことになって、結局どっちつかずのまま続けられなくなるということがあった。

結局のところ、継続するのが一番大事なのはわかってはいるが、しかし言葉をいくらでも綴れるかというのは難しいと思う。ただ、noteは現状いいサービスだとは思うが、あくまでサービスである以上、サーバーを借りて自分でブログを設置しているのに比べると、最終的な自分の管理権限というか、そういった感覚がちょっと薄い。なので、あくまで主体はここでありたいと思う(広い目で見ればここだって似たようなものかもしれないが)。相手の都合で仕舞わざるを得ない、ということを想像すると、そう考える。

それよりもInstagramの方がいま、やっている意味の比重が軽くなりすぎている。撮る枚数が増えてきて、PCからの投稿が簡単なTwitterが主なSNS運用に移ってしまい、Instagramは後追いであげるようになった。となると毎日Twitterで10枚以上アップしている私は、Instagramでハッシュタグをつけながらアップロードできるか、というと、結局面倒になってしまった。いまアップロードしているとはいえ、毎日ではない上に、ハッシュタグもキャプションもほぼないことの方が多い。そして一気に3枚ずつとか、9枚ずつとかあげてしまう。しかしそれでもTwitterの方が上げる勢いが大きい。

なのでInstagramへのアップロード待ちが400枚とか500枚という状態がざらになってきている。さすがにTwitterにあげたものを全部後追いでアップロードはしない方がいいのかもしれないと思い始めた。前はもう少しペースがゆっくりだったのでちょうどよかったのだが…。

それでもやめようとまではいかないのは、やはりTwitterでは繋がっていないけれどInstagramで繋がっているリアルの知り合い、旧友らとの一種生存報告的なSNSになっているからだと思う。一昔前はFacebookがそうだったのだろうけれど、今やInstagramもFacebook傘下だし、あまり変わらなくなった。運営の性質もFB寄りになっているのだろうと思う。

Twitterもいまはばんばん写真をあげているが、この先はどうなるかはわからない。使い勝手もいつかわるかわからないし、使っている人たちも流動的だ(昨日いいねをくれた人が今日ブロックしてくることだってある)。また新しい類似のサービスが生まれたりするのかもしれないが、どうなるだろう。そういったSNSとは別に、やはりこういうサイトはあった方がいいなあと思う。ここで商売をしているわけではないから、あまりルールもがちがちに決め過ぎないでいいだろうと思っている。

結論が出たわけではないが、せっかくカテゴリも作ってあるのだし、結局のところここでも写真についても書くのだろうなとぼんやりと思った。

各種SNSとここの使い分けに悩んだり

カメラは楽しい。フィルムも楽しい。写真が楽しい。

カメラは楽しい。フィルムも楽しい。写真が楽しい。

Twitterに書いていたら140字を超えたのでここに書いておこうと思う。

楽しんでいることを、カメラで撮らない人にもわかってもらいたい気持ちがある。押し付けるつもりはないけれど、興味があるなら是非実際に触って欲しい。好きに撮って欲しい。人に迷惑かけなきゃどんな撮り方でもどんな写真だっていい。楽しかった? ならそれだけでいい写真だと思う。写真は何が写っていた?どんなふうに写っていた?何を思っていた?何を思った?何も思わなくてもいい。とりあえず撮ってみてほしい。高いカメラである必要はないし、フィルム関係もコストは上がって来てはいるけど、遊びだから無理のない範囲でやってみるといい。だって今しかできないかもしれない。私は多少の無理はしているけど後悔はしない。言い切れないか。後悔は後からするもの。今私はめっちゃ楽しい。もやもやも苦しいもたのしい。

 

写真を見る。

もうたくさんの人が言っていることだけど人にいいねされるのは承認欲求を満たす意味でも気持ちいいし、その人が写真を見てくれたんだというコミュニケーションの意味でも嬉しい。いいねがたくさんついている写真に「おおー」だとか「すごい」とか「綺麗だな」とか感嘆するものがあるけれど、もちろんついていない写真にも同じように感嘆するものはある。これは当たり前のことで、自分が好きな感じの写真にいいなと思うから・好きだなと思うから、感動(心が動かされる)する。自分がだよ、他人がじゃないよ。

 

写真を撮る。

デジタルでもフィルムでも何でもいい(写真に限らなくてもいいけどここでは写真に限定して話をしよう)けど、自分が撮った写真すべてが自分の好きなものであるわけではない。けどその中に時折、人によってその打率はそれぞれだろうけど、好き!というのが撮れることが出てくる。これが気持ちいい。一気に気持ちを持って行ってくれるものもあれば、じわじわと好きになるものもある。どちらにしても自分が撮った愛らしい写真だろう。そこに上手い下手の基準を無理に押し当てる必要はない。好きなものは好きでいいと思う。(向上心から、他者の客観的意見や批判、刺激を求め、それによって研鑽することを否定するものではない)

写真の技術的な上手さというのはいくつかあるけれど、私からするととりあえず自分の撮りたいような構図、露出で撮れればそれは相当に上手い。カメラ本体の技術に手助けしてもらってもいい。でもその一方で自分の想定していなかった写真が出てきたら、それだけでも改めてその写真をよく見てみる価値はあるし、面白い。フィルムは現像するまで見られないからなおのこと。どうにも気に入らない写真だったなら、別にそれを加工材料にして何か別の写真に生まれ変わらせてもいい。思い通りの写真が撮れたら、その写真を生んだ環境と技術への感謝、そして少しでもその感覚を体になじませたいと思う。

記念写真、記録写真、スナップ、ポートレート、風景写真、なんか写真はいろいろジャンルがあるらしいけど、なんでもいい。自分が撮りたいものを撮ろう。私は何を撮っているんだろう。わからない。わからないけどシャッターを切りたいと思ったので撮っていることが多い。その中で街並みの記録がこれから先何十年かして、自分や誰かの記憶を思い起こさせる材料になったらいいなとは思う。だから記録写真は数と積み重ねが質をあげていくと思っている。家族写真は撮っておいた方がいいと思う。私は撮っていないが、自分の親たちが撮ってくれていたのを今になって感謝している。気づくのが遅すぎた。祖父に申し訳ない思いを持っている。

 

写真を受け入れる。

あなたは自分の写真が大好き!と声高に叫んでいい。私も自分の写真が決して万人受けはしない地味なものだと知っているが、他人がいいと思う写真が私の好きな写真とイコールである必要はまったくないし、私の写真を他人が好きでいなければならないなんて可笑しいだろう。大好き、というか、愛おしい、だ。私は自分の写真を愛おしいと思う。自分の書いた詩や言葉を愛おしいと思うのと同じだ。他人がそれを受入れたり、気に入ったり、気に入らなかったりするのとは別問題である。

自分の写真を嫌ったりすることも、あるかもしれない。一部か、全部か。どちらにしてもそれを好く好かないかが自由である。その時の自分の心持ちが起因しているのかもしれないし、技術的な未熟さによるものなのかもしれない。

 

カメラと向き合う。

カメラは一台とじっくりつきあってもいいし、私みたいにあれこれ使いまわしてもいいし、中には次々売って買って乗り換えていく人もいるだろう。シンプルに考えれば写真を撮るという行為ではカメラは道具であり自己と対象の間で時間と光を経由させる手段だ。だから自分に合ったものを好きに使えばよい。どこのメーカーのどのカメラやレンズでないとまともではないというようなことはない。用途によっては適した機体はあるだろうけれど。自分の作風と自分の感性にあったものを使うのがよい。個体への愛情、あるいはカメラという機構分類への愛情、メーカーへの愛情。愛にはいろんな形があるとは言うが、時としてひねた形をとったとしても、それを他人の愛着に対して用いたりぶつけたりして、結果的に他者の領域に土足で踏み込むような真似をすべきではないだろう。

べき論ばかりだと楽しくはないか。けれどカメラは楽しい。写真は楽しい。フィルム写真を始めたのは昨年の夏の終わりだったか。上手く説明は出来ないが、デジタルとフィルムはやはり違うし、フィルム同士もそれぞれ異なる。それまでD200からDfに乗り換えて、やっぱりフルサイズのデジタル一眼レフの写りはすごいなあ、なんて思っていた。けれどフィルム写真が楽しくて仕方なくなって、次第にデジタルもセンサーの違いはフィルムの違いみたいなものだあと思うようになった。D200の写りが地味に見えてしまった頃もあったが、今はD200というフィルムを使う感覚で撮っている。Dfもまた然り。そうなるといろんなデジカメも、それぞれのフィルムが詰まっているみたいな感じだ。正確には撮像素子と書けばいいのだろうけど、それだと私が捉えたニュアンスとまた違うので。

そうなるとフィルムもまた甲乙をつけるようなものでもなくなってくる。自分がが好きか嫌いか。写真をやっているとどんどん世界は自分中心になる。だって自分が好きか、嫌いかでしかないのだ。偶然にも他人とそれが重なれば共感というものだろう。だから他の人が撮った写真でとても好きな人はフォローしておっかける。投稿される写真を楽しみにする。中にはブロックしてくる人もいるが、写真を、作品を見たいなあと思う。私が気持ち悪いのはわかる。

 

写真楽しい。撮っているときが楽しい。撮った写真を見るのが楽しい。人が撮った写真を見るのも楽しい。好きな写真を探すのも楽しい。人がカメラを、フィルムを、写真を好きと言っているのを見るのも大好きだ。また中身を推敲して改めて書き出すかもしれない。長い呟きになった。

カメラは楽しい。フィルムも楽しい。写真が楽しい。

minolta SR-1は可愛い

これはminoltaのMFフィルムカメラである、SR-1というカメラです。SR-1はいくつかバージョンがあるらしく、私がこれだ、と思ったのは第3期版のようです。どこが気に入ったのか、誰に伝えるでもないのですが書いておきたいと思います。

まずもって、その形状です。シルエット。ペンタプリズムのとがり具合と、それが包含するマイルドな曲線、そのバランスがとても美しいと感じます。カメラを持っているときにはそれを目にすることは難しいですが、ふとカメラを降ろして差し向ったとき、あるいは硝子や鏡に映ったその姿をみたときには、造形に見惚れること請け合いです。ちなみに私が所持しているminoltaのカメラで、ほぼ同等に良いバランスを保っているのがSR-7です。SR505はこの形状がかなり違います。

形状つながりで、ボディ側面の滑らかな曲線が非常に艶めかしく、手を添えた時に悦びすら伝わってきます。SR-7よりなお楕円に近く、人体のくびれた腰に手を添えるかの如く感じ得ます。

次にキュートなポイントを挙げておきたい、それはSR-1のロゴタイプです。そのカラーがこの3rd版では緑色で、そこが私の心をとらえて離さない。道行く人のあるワンポイントが強烈に印象に残ることがありませんか。私はそれをこのSR-1の緑色とそのロゴタイプの美しさに感じたのでした。SR-7のロゴも好きです。ただしあちらは(シルバーボディでは)黒色で、キュートというよりはスタイリッシュな印象を受けます。SR505やSR101は、現物を見た印象としてはブラックボディですと私の好みに映ります。

大きなポイントは先述の通りですが、その他はフィルムカウンターが丸窓であること。これは好きなカメラのひとつであるNikonのNikomatFTNが同様の丸窓カウンターで、潜水艦のようだと感じてなお可愛らしさに心ときめかせたものです。SR-1も同様にかいらしい。これがのちのデザインだと小さな角形になっていったのが、個人的には残念です。省スペースの目的を達するため仕方なかったのだろうとは思います。

あとSR-1のこの時期の型はMINOLTA CAMERA CO., LTD.ではなく、CHIYODA KOGAKUなのも良いです。あと巻き上げレバーのエッジの効いたデザインも中々見た目はいいです。使うときは指が痛いですが。

シャッタースピードが1/1000まであるSR-7と違い、1/500が最速なのが少し残念かもしれませんが、高感度フィルムを使わなければそんなものかなと。あと私は勘露出があまりよくないので、露出計がない分少し緊張します。サニーデイ16(晴れた日なら、絞りはf16でSSは入れているフィルムの感度分の1で大体適正)だったかの法則に従って、大体でやるようにしています。SR-7は露出計がついていますので、少し安心できます。ただSR-7やSR505の露出計スイッチが底ので入り切りしづらいのはつらいところです(切り忘れる)。露出計がないのはそのあたりの悩みを端から埒外へ追いやることができるのはいいことなのかもしれません。

ロッコールレンズにはニッコールレンズやズイコーレンズと同様に愛着を持っております。まだ所持しているものが多くはないので、欲しい焦点距離などもありますが、じっくり楽しんで行きたいところです。最後に何枚か、SR-1で撮った写真を貼り付けておきます。

minolta SR-1は可愛い