ちよつとした心の動きは寫眞で

ちよつとした心の動きを感じたら、シャツタァを切つてよい。さういふ、小さな心の感應を、寫眞といふ繪で殘してをく。

大きな心の動きは、その糸目を、紙といふ繊維に縫い付けるやうに、言葉にして殘してをく。丁寧に、時として、叩きつけるやうに。

寫眞でもよいのですけれど、私にはその一枚繪でナミのおほきさを表現するのは難しいですし、言葉の儘ならぬもどかしさは却つて自分らしいなと自己愛に溺れることもできるのですから。小さな動きもまた、うまく云ひ表せなくて、むず痒い思ひをしてをりますけれど。

わたくしは、じぶんじしんと、じぶんがうみだしたものを好いてくれるひとをだいじにして參りませうね、すぐにじぶんをきらいになるひと。

ちよつとした心の動きは寫眞で

葬送

Nikon FM2, Lomography 100 Color Negative

 

時間の葬送ごとに花添へて少女は奔り去ってった

まゝごとにゐた時間はその惜別に閉じられて、

わたくしの足元に色を少しづつ落として去ぬ

葬送

石畳

雪ちらして石だゝみの鏡割れ、
あかる街燈にそむらんで、
ゆく君の薄きれたる裾尾の。

ゆふべの襟にかぐわしき、
点点と縫ひ跡たどるのみ。
ゆふべの燈りが殘るまど。

石畳

こひしくおもふ

鉄扉
Nikon Df + Planar T*50mm F1.4

フィルムに恋をしているか。
カメラに恋をしているか。
写真に恋をしているか。
恋しく思う。

私のここ10年ばかりのテーマは自分自身の心の動きをできるだけシンプルにとらえることである。好きなことに向き合うことを簡潔にしたい。本来それは無意識に行っているはずなのに、変に「考えて」しまって強張り、自分が何をしたいのか、何をしているのかわからなくなっていったことが苦々しく思われる。

私は作品を作るために写真を撮っているわけではないということに立ち返る。詩もそうだ。私は自分の心の動きを文字や言葉か、カメラを使った写真という媒体で一時的に固定化している。難しく考える必要はない。誰かのためにするのではない。純粋に自身のために、書いたり撮ったりする。しかしやり方を変えてもいい、試してもいい。

自分に自信が持てぬから、必死に自分の「好き」にしがみ付いてゐる。戀しく思ふもの、戀しく思ふひと。

フイルムに戀をしてゐるか。
カメラに戀をしてゐるか。
寫眞に戀をしてゐるか。
戀しく想ふひと。

あかい煉瓦は雨に黒く濡れてをり。

こひしくおもふ