脳内で描くこととシャッターを切ることについて

撮影のラフを描ける人を尊敬する、本当に。

Twitterで書いたが、最近物事を忘れやすくなっているし、一度文字に起こしたのをまたかきなおすのも面倒であるので、ここに書いておきたい。Twitterはライフログのように使ってしまっているけれど、いつかすべてのデータが消えるだろうし。

事前になにかイメージをしたり、形にしたりということが本当に出来ない、これは自分の頭のつくりがそうなっていないくらいにできない。特に複数個のオブジェクトを同時に想像の世界に設置するということが難しい。例えば、背景+主題+副題というものを脳内でセッティングすることが難しいのである。

なので、撮影のラフ、例えばこういう場所でモデルをこうで、モデルの衣装はこんなので、こんなものを持たせて、光の感じはこうで、色合い(フィルム)はこうで…と詰めていくことができない。

私は人物撮りはしないのだが、それ以外の撮影でも大体がその場行き当たりばったりで、あまり考えずに撮ってしまうことが多い。よく言えばその場の直感に従い、一発で勝負を決めているとは言えるが、どちらかというとツメが甘いのだ。

そんな私からすると、ラフを脳内に描ける人に対して、どうあってもその世界を見ることができない圧倒的に分厚い壁が、窓もなく目の前にあるように感じる。散々他人の能力に追い付くには相当な努力が必要なことであったり、また人には向き不向きがあったり、努力すること自体が才能なのであったりということを思い知らされてきたが。

私がシャッターを切る時、いつも同じ気持ちではない。気がついたら切っているときもあれば、軽快にスキップをするかのようにかろやかなときもあれば、ただ無機質に切るときもあるし、これを撮ってもきっと撮らなくてよかったなと思うだろうなんて考えながら撮ることもあるし、自分なりに考えに考えて(切らない時もある)切るときもある。その軽重と結果もまた別に比例しない。

しかし時折得られる、「静かで、撮りたいと思った瞬間にファインダーを覗き、落ち着いた、私という絵具がその場の空気に滲み、ゆるやかに繋がっていくかのような感覚」でシャッターを切ると、それはまた言葉を生んでくれたりもする。

先にアップした「口唇」なんかもそうだ。過去に何度かそういうようなことはあった。少ないけれど。

そういう写真を撮りたい。

脳内で描くこととシャッターを切ることについて

移り行くカメラ「Nikon Df」「Nikon D200」

Nikon Df

2018.6.24、Nikon Dfを購入。発売当時、頗る物欲が刺激され、それをおさめるのに苦労した覚えがあるが、発売からやがて5年ともなろうというこの時期になって、いろんなめぐりあわせによって購入に至った。新品でも中古でもない、展示品の売り切りである。外に持ち出されるようなことはなく、落下などもないだろうが、いろんな人の手に触れられてきたという経歴はある。若干の抵抗がないでもなかったが、新品しか店頭になかったのであれば、おそらくは購入にまでは至らなかったに違いない。シルバーの中古はあるにはあったが、つけるレンズとのバランスを考えるとブラックが無難であった。

この日、当日もD200で撮影もしていたし、フルサイズへの憧れも捨てきれないままずっと腹の底にくすぶるものは持っていたものの、それが一気に手元に引き寄せるだけの大きなエネルギーになったのは自分でも驚いている。先ほどもいったように、いろんなもののめぐりあわせなのだろうと思う。

かといって経済的余裕もないので、月々の支払いにすることとして、レンズも原資産があるからよかろうと思ったが、軽いAFの50mmはもっていなかったのでレンズキットであることもそのまま受け入れた。D200が中級機とはいえ重量のあるカメラだったので、Dfは少しばかり軽い。

Nikon D200

上の写真は愛機D200である。

そう、フルサイズ…初めてのフルサイズ機だ。D200を購入したのは2005.12.16、今からもう13年近く前である。当時中級機にはフルサイズデジタル一眼はなかったと思う。CanonのEOS5Dが確かフルサイズで、好みはニコン寄りとはいえ羨ましさを隠せなかったように思う。その時すでにフルサイズの方が当時“憧れていた写真”の雰囲気は作りやすかったのだろうが、実際に触ってみたらD200のシャッターの気持ちよさに満点をつけたのであったっけか。

Dfのシャッターの感覚がD200とはまた違い、少し物足りなさを感じはするけれど、またそれも慣れてくるだろうなと思う。大体にして、自分自身のカメラや写真に対する知識、そしてなにより腕、それらがこの十数年でどれだけ変わったというのだろう。おそらく大して変わってはいない。むしろ環境への慣れが、自分の写真への向き合い方を悪くしていっている自覚さえある。それを少しでも変えたいと思ったのも、いささか荒療治な買い物の理由のひとつであった。写真への、というか身の回りの空間、時間、景色、モノ、ヒト、空気、いろんなものへ、改めて惰性を捨てて向き合いたいと思う。せめて、一番熱をもって走り回った20代の写真とはまた違う、30代の写真を、あと5年もない間になんとか作ってみたい。他人からみればそう変わらなくてもよい。私は何も残せないことに恐怖している。

RICOH GR DIGITAL

サブで使っていた、RICOH GR DIGITAL(初期型)もカメラボックスに入ったままだった。バッテリーが持たなくなって、またカメラをそう持ち歩ける職場ではなかったのもあって、あまり使わなくなってしまった。悲しいことだ。GRDは2007.4.21に購入した。これも2005年、D200と同じ年に発売されたコンパクトデジタルカメラであったらしい。以前持っていたコンデジのLUMIXを不慮の事故で失ってしまい、携帯カメラも今ほど主流ではなかった頃だったのでコンデジが欲しい思いが妙にミーハーな物欲と結実し、これまた高嶺の花を強引に購入したものであった。経済的に余裕があったか?いやなかったろう。しかし仕事が忙しく、体も心も壊れてきていた頃だった。何か現実的な物欲で自分自身と現実を繋ぎとめておく必要があったのだった。カッコイイモノの所有欲が当時の私を満たしてくれたのだと思う。そうして、その年の瀬、勤めていた会社を辞め、別業種へと駆け出して行ったのだった。その中で先述のD200も、GRDも大いに自分を支えてくれたものの一つだった。

GRDは初期不良で一度修理には出したが、今も単四電池を入れれば動く。ちゃんとバッテリーを買いなおしてあげたいところである。近年はモノクロモードで無限遠かスナップでぱっぱぱっぱと適当に撮ってみるやり方をしていた。しかし人を撮るのは怖くて、できない。

レンズはD200購入から数年間の間に集中して収集した。今でも一番の使用頻度の35mmF2Dやプラナーの50mmやら。SIGMAの安めの望遠ズームとかトキナーの広角、Nikkor105mmF2.8VRとか…。今になって85mmくらいのレンズが欲しくはなっているが、あとはもう丈夫で素直でかっこいいD200が10年以上に渡って活躍して今に至る。今でも十分に使えるし、最初に好きになったシャッターの感覚は変わることがない。

Df

そしていらっしゃいませDfだ。フィルムカメラを彷彿とさせる見た目、現行シリーズからすると明らかに一般受けはしないだろうDfだが、これまた格好いい。もうフルサイズデジイチも普及して目新しいものではなくなったが、私自身がシャッターを切って、撮りだされる画は、それはそれは新鮮で、初めてD200や単焦点レンズのボケをみたときの気持ちを思い出した。これからの暑さにも負けずに楽しんで行きたい思いである。だが先の冬の雪がひどかったのと同じくらい今年の夏は暑すぎはせぬか。写真云々言っているうちに暑さで倒れてしまう…。

うだうだ書いたが、Nikon Dfをお迎えした日記であった。おわり。

移り行くカメラ「Nikon Df」「Nikon D200」