脳内で描くこととシャッターを切ることについて

撮影のラフを描ける人を尊敬する、本当に。

Twitterで書いたが、最近物事を忘れやすくなっているし、一度文字に起こしたのをまたかきなおすのも面倒であるので、ここに書いておきたい。Twitterはライフログのように使ってしまっているけれど、いつかすべてのデータが消えるだろうし。

事前になにかイメージをしたり、形にしたりということが本当に出来ない、これは自分の頭のつくりがそうなっていないくらいにできない。特に複数個のオブジェクトを同時に想像の世界に設置するということが難しい。例えば、背景+主題+副題というものを脳内でセッティングすることが難しいのである。

なので、撮影のラフ、例えばこういう場所でモデルをこうで、モデルの衣装はこんなので、こんなものを持たせて、光の感じはこうで、色合い(フィルム)はこうで…と詰めていくことができない。

私は人物撮りはしないのだが、それ以外の撮影でも大体がその場行き当たりばったりで、あまり考えずに撮ってしまうことが多い。よく言えばその場の直感に従い、一発で勝負を決めているとは言えるが、どちらかというとツメが甘いのだ。

そんな私からすると、ラフを脳内に描ける人に対して、どうあってもその世界を見ることができない圧倒的に分厚い壁が、窓もなく目の前にあるように感じる。散々他人の能力に追い付くには相当な努力が必要なことであったり、また人には向き不向きがあったり、努力すること自体が才能なのであったりということを思い知らされてきたが。

私がシャッターを切る時、いつも同じ気持ちではない。気がついたら切っているときもあれば、軽快にスキップをするかのようにかろやかなときもあれば、ただ無機質に切るときもあるし、これを撮ってもきっと撮らなくてよかったなと思うだろうなんて考えながら撮ることもあるし、自分なりに考えに考えて(切らない時もある)切るときもある。その軽重と結果もまた別に比例しない。

しかし時折得られる、「静かで、撮りたいと思った瞬間にファインダーを覗き、落ち着いた、私という絵具がその場の空気に滲み、ゆるやかに繋がっていくかのような感覚」でシャッターを切ると、それはまた言葉を生んでくれたりもする。

先にアップした「口唇」なんかもそうだ。過去に何度かそういうようなことはあった。少ないけれど。

そういう写真を撮りたい。