まちの写真を撮ること

2019年9月18日 21:51投稿

石川県に移り住んで、もう15年ほどになります。かたくなにこの地から離れないのはお魚が美味しいからです。上等な蟹やブリでなくても、普通にスーパーで売っている魚(刺身)が美味しい。北陸最高です。

そんな感じで、実際のところ郷は滋賀県というところなのですが、いまの私の仕事柄、石川県郷土に関することで調べものをしたりすることが多いです。自分にとって郷土と呼べるほど、中に根差したものを持っていないけれども、そういったものに関わっていかねばならないというのはいまだに苦労しています。

仕事で写真を撮ることはほぼないのですが、自分が写真を趣味にしていると、自然と自分が好んで被写体に選んでいるもののひとつに、街並みというものが存在することに気づきました。自己紹介の記事で、

私の写真は大きく分けて、記録としてのものと、対象として撮ったものと、感応したものの三つに分けられます。

と申し上げました。私が街並みを撮るときの多くは、この三つがブレンドされています。撮ろうと思うときは「対象として撮ろう」として、ファインダーを覗く・もしくはシャッターボタンに指を持っていくとき(つまり、「よしやっぱり撮ろう」と思ったとき)は何かしら「感応したもの」をわずかながら吸い込みながら撮ります。そして撮って、上がってきた写真を見ると、それは最終的に街並みの「記録」としての意義を持ってきます。

記録としての意義、それは私にとっては今現在の街並みの姿を残しておくことです。なんだか普通ですね。けれど、冒頭に申し上げましたが、郷土の調べものをしているとき、こういった何気ない街の風景、どこにどんなお店があったとか(また、その業態とか)、人はどんな服装をしていたとか、どんな交通事情が垣間見えるかとか、看板・ディスプレイのデザイン、どんな樹木が植えられているとか、ほんとうにたくさんの情報が詰まっています。そこに私の感情や感傷が存在していようがいまいが、記録としての意義は揺らぎません。

意義は誰に掲げるものでもなければ、誇示するようなものではないと思っています。その人がそうしたいなら信念として持っていればよい。感情や衝動、その人の強い色を乗せた街並みの写真は、それはそれできっと素敵な写真になるだろうと思っています。ですが私はたとい実家の滋賀県であったとしても、いま金沢などの街並みを撮っているのとそう変わりのないものを生み出すだろうと確信しています。自分の生まれ育った地であるということが、果たして自分にとっては強い想いとなるだろうか。それはないように思われました。全く何も感じないわけではありませんが、自分というものの薄みが、却ってどの街中で私を空気にしてくれたら、と願っています。こうしてここに挙げて書いていることで、意義を振りかざしているのかもしれませんが、私は自分自身のことだけを考えるのでいっぱいの人間ですので、それを見ているのもそう多くはないと思います。けれど。

いずれ、(記録としての)意義は意味を持ってくるんじゃないかと思います。それを見出すのはもう少し未来に(これが残存していれば)この写真を見た人や発見した人がすることなんだろうなと思いますので、自分はやはりただ撮ろうと思ったもの、今回の話では街並みになりますが、それをフラットな、素直な気持ちでただ撮ればいいのだと思います。街並みの写真は、撮った直後、たとえDfやD200で見てもあまり達成感などは感じません。帰ってからとか、数日後、下手したら数週間後や数か月後にふと見直すと、そのときの季節の感じも相まって、なんだか街並みそのものを懐かしく、親しみを持って眺めてしまうことがあります。そういうものなんだなと思います。ですので、同じ場所を違う季節で撮り続けることは、私にとって楽しいことの一つです。

街並み写真ごときに郷土を見出すんじゃない、なんて言われるかもしれませんが、私にとっての例えば十年間の見ている景色は、仮に出身地元の十年間の景色と比較したとしても、そう重みは変わらないように思えるのです。考えが浅いでしょうか。けれど私が写真を通して見る姿というのは、ある意味感情さえも希薄なのかもしれません。だからドラマにはならない。しようともしていない。

どのような形で遺していくかは、また別の話です。これこそ撮ったきりでは、電子データの藻屑となるでしょうし、ネガも保管に気を遣うべきでしょうし。

あくまで今回も、私の中の心の動きやバランスのお話でした。何かのテーマについて述べるということは難しいので、だいたいが自分語りになります。ここまで読んで下さった、根気強いあなたに感謝いたします。

それでは、よき写真生活を送られますよう。