ちよつとした心の動きは寫眞で

ちよつとした心の動きを感じたら、シャツタァを切つてよい。さういふ、小さな心の感應を、寫眞といふ繪で殘してをく。

大きな心の動きは、その糸目を、紙といふ繊維に縫い付けるやうに、言葉にして殘してをく。丁寧に、時として、叩きつけるやうに。

寫眞でもよいのですけれど、私にはその一枚繪でナミのおほきさを表現するのは難しいですし、言葉の儘ならぬもどかしさは却つて自分らしいなと自己愛に溺れることもできるのですから。小さな動きもまた、うまく云ひ表せなくて、むず痒い思ひをしてをりますけれど。

わたくしは、じぶんじしんと、じぶんがうみだしたものを好いてくれるひとをだいじにして參りませうね、すぐにじぶんをきらいになるひと。

ちよつとした心の動きは寫眞で

Nikon F-401QDで卯辰山花菖蒲園へ行ってきたが

以前Nikon F-601QDをジャンク函から買い上げ、問題なく使えたことがあったが、この度Nikon F-401QDを知り合い(というか前の職場の上司)から譲り受けた。私は借り受けた、と言っているのだが、先方が譲ったのだと主張するので、譲り受けたということにしておく。レンズはAF NIKKOR 35-70mm F3.3-4.5と、F-601のあとに購入した安めのズームレンズとスペックは全く同じなのだが、生産時期が違うためか形状が異なる。まあ使い勝手は似たようなものである。

残念ながら長いこと使われずにいたらしく、私に譲渡する前にフィルム蓋を開けたら閉まらなくなったという。確認すると、蓋を留めるためのプラスチック製の爪が折れていた。そのあと写真の文明堂さんにも見てもらったが、これは強度的に接着するのは難しいとのこと。蓋が開かなければいい道理であるので、私はテープで固定した。なんというか節操のない貼り方である。せめてテープの種類を一種にするべきだったろうか。

とりあえずテストフィルムにC200を詰めて金沢の街を撮り歩きながら、浅野川方面へ向かう。そしてそのまま上流へ向かい、天神橋のあたりから卯辰山へ入った。前に頂上の見晴台まで歩いたことがあったが、6/1のこの暑さで徒歩はきつい。とりあえずここまで来たのだし、菖蒲園の様子を見に行ってみることにした。それでもそれなりにきつい坂を上る羽目になる。

テストフィルムは今日6/4に無事現像も上がって来て、カメラには問題はなさそうと判断できた。卯辰山あたりの写真を数点挙げておきたい。

予め言っておくと、菖蒲は殆ど咲いていなかった。例年でも中旬以降が見頃だそうだから、早すぎたのである。紫陽花もまだだ。緑ばかりが広がるが、一部はこうして早くに咲いている品種もあった。橋に這いつくばるようにしてシャッターを切る。

F-401のシャッタースピードと絞りは、スケルトンカバーのかかった珍しいデザインの軍艦部(一部)で設定する。しばらく操作に慣れずもたついていたが、段々とやりやすく感じてきた。F-601とはまた違う操作感である。401は絞りリングを回して…という使い方はできないのだろうか。

開放気味で撮影する。花びらの白い部分がやや白にじみを起こしているのは開放だからか?葉はくっきりとシャープに出ている。この菖蒲園は坂道になっているので、写真としての構図はこういう撮り方をすると、妙にかたがっているように見えてしまう。

紫陽花の少し色づきはじめたものを撮る。Twitterには「汗蒸す山かげ、独り見詰めるも、まだ若し紫陽花のいろ」と言葉を添えている。言ってみれば安レンズといえば安レンズなのだろうけれど、光の具合もちょうどよく揃っていたためか、写りとしては文句なし。後ろの丸ボケのちらちらとした感じも面白いかなと思う。暑かったので、日陰でぱたぱたと首元を仰いでいた。

全体を見るとまだこんな感じだ。菖蒲もたくさんあるが、私の好きな紫陽花も多く植えられているので、また月末あたりにでもお邪魔したい。毎回歩いてきているが、たまには車で…いや、そうなると停められないかもしれないし。

36枚、全部失敗らしい失敗はなし。今日結構連投してしまったが、またおいおい上げていきたい。本当はNikon S2のACROSも現像は上がってきたのだが、データ化はせずに現像だけお願いしたため、また時間があるときに取り込んでいかねばならない。次の休日に気力あらば。

 

Nikon F-401QDで卯辰山花菖蒲園へ行ってきたが

脳内で描くこととシャッターを切ることについて

撮影のラフを描ける人を尊敬する、本当に。

Twitterで書いたが、最近物事を忘れやすくなっているし、一度文字に起こしたのをまたかきなおすのも面倒であるので、ここに書いておきたい。Twitterはライフログのように使ってしまっているけれど、いつかすべてのデータが消えるだろうし。

事前になにかイメージをしたり、形にしたりということが本当に出来ない、これは自分の頭のつくりがそうなっていないくらいにできない。特に複数個のオブジェクトを同時に想像の世界に設置するということが難しい。例えば、背景+主題+副題というものを脳内でセッティングすることが難しいのである。

なので、撮影のラフ、例えばこういう場所でモデルをこうで、モデルの衣装はこんなので、こんなものを持たせて、光の感じはこうで、色合い(フィルム)はこうで…と詰めていくことができない。

私は人物撮りはしないのだが、それ以外の撮影でも大体がその場行き当たりばったりで、あまり考えずに撮ってしまうことが多い。よく言えばその場の直感に従い、一発で勝負を決めているとは言えるが、どちらかというとツメが甘いのだ。

そんな私からすると、ラフを脳内に描ける人に対して、どうあってもその世界を見ることができない圧倒的に分厚い壁が、窓もなく目の前にあるように感じる。散々他人の能力に追い付くには相当な努力が必要なことであったり、また人には向き不向きがあったり、努力すること自体が才能なのであったりということを思い知らされてきたが。

私がシャッターを切る時、いつも同じ気持ちではない。気がついたら切っているときもあれば、軽快にスキップをするかのようにかろやかなときもあれば、ただ無機質に切るときもあるし、これを撮ってもきっと撮らなくてよかったなと思うだろうなんて考えながら撮ることもあるし、自分なりに考えに考えて(切らない時もある)切るときもある。その軽重と結果もまた別に比例しない。

しかし時折得られる、「静かで、撮りたいと思った瞬間にファインダーを覗き、落ち着いた、私という絵具がその場の空気に滲み、ゆるやかに繋がっていくかのような感覚」でシャッターを切ると、それはまた言葉を生んでくれたりもする。

先にアップした「口唇」なんかもそうだ。過去に何度かそういうようなことはあった。少ないけれど。

そういう写真を撮りたい。

脳内で描くこととシャッターを切ることについて

葬送

Nikon FM2, Lomography 100 Color Negative

 

時間の葬送ごとに花添へて少女は奔り去ってった

まゝごとにゐた時間はその惜別に閉じられて、

わたくしの足元に色を少しづつ落として去ぬ

葬送

H to R

平成から令和へと渡る。それはひとつの變化でありませうが、かといつて昨日から今日に至つて突然なにか物の見え方から變はるものではないでせう。天皇陛下の譲位に就いては無論おほきな出来事ではありますが、わたくし個人の内面であつたり、その周辺の世界をつくりかへるというとまた違ふものに思はれます。變化といふもの、それが一時代ごと、一年ごと、一日ごと、また一刻一刻に生じてをりますことは、わたくしも理解つてをります。しかし突然視界が開けるやうな劇的なものを、安易にイメエジしては却つて微細な變化を見落とすことになるのではないかと思ふのです。と云つても、その日常の小さな誤差のやうな變化を殊更に強調し乍ら過ごすのはまた大袈裟であり、飽きもしませう。わたくしが大事にしたいと思ふのは、大なり小なりの日々そのものを記録しつゞけてゆくことです。おほきく云へば時代の移り變はり、或いは時代のひと区切りの實感といふのは、その長い記録を振り返るときに生まれるやうに思ひます。平成を撮る、といつたことは、今現在實行されてゐることではありますが、その平成そのものを郷愁とともに實感するには、記録し續けたのち幾ばくか時間が経てからの、一瞬ふと振り返るその時まで得られぬとわたくしには思はれるのです。きつと令和の時代を撮り續けて、何年か、十數年だかしてわたくしは平成の時代を寫眞のなかに見出せるやうな氣がいたします。

H to R

Nikon F Photomic FTnが平成最後のお迎え

私は4/14が誕生日だが、色んな巡りあわせの結果、この機会にNikon F Photomic FTnを購入した。Nikon Fはあの尖がったカッコイイペンタ部のNikon Fアイレベルが有名だし、人気があるのだが、かなり値段も高くてそう簡単には買えない。フォトミックはそれに比べると相場は落ち着いている。しかしながらある人からみれば野暮ったい、しかしまたある人から見れば可愛らしいその頭部は、私も最初はえらく大きいものだなあと思っていたのだが、次第に愛らしく感じてきたのだった。

そもそもそれを現物で最初に見たのは写真の文明堂で紹介された時だ。中古で入ってきたのだがシャッター部にやや不良があるということだった。それまではNikon F自体にそこまで興味を持っていなかったのだが、実際現物を触ってみるとどうも関心を持ってしまう。ネットで色々調べたり見ているうちに、その中古でいいから買えないか聞いてみることにした。しかしお世話になっている店員さんからすると、私の集めている傾向やラインナップ、使い方などを考えると、ちゃんとした良品を買った方がいいですよとアドバイスしてくださった。お店の売り上げだけを考えるなら売ってしまえばそんなものだろうが、このお店はこういうところがある。カメラ店以外を含めても、石川県で信頼しているお店のひとつにここを挙げたくなるのはそういう理由である。

そこからしばらく、Nikon Fは心の片隅に追いやって、いつかいいものに出会えたらと他の機材で撮影を楽しんでいた。しかしある日、綺麗なフォトミックに出会う。前からあったのかもしれないが、なんだか吸い寄せられるようにそこへ足を運んだ。値段も少し高めか…?くらいだったが、注意書きを見てみるとなんと「OH済」とある。つまり動作は安心だということだ。それを考えるとむしろ安いのではないか。すぐにでも買いたかった。

だが念のため、一日考えることにした。

もっとよく調べて、アイレベルを頑張って(お金をためてから)購入すべきか? だが私は本当にアイレベルが欲しいのか?確かに格好いい。欲しいは欲しい。しかしそれでなくてはならない、というには動機が不確かであった。比べて、フォトミック機構、つまり露出計がOHできっちり動作保証されていると考えると、普通に使いやすいし、Fをよく知る前はただでかい頭部だった部位も、愛らしい心持ちさえしている。Nikomatと同じくガチャガチャができるのも楽しそうだ。あと、どうしてもアイレベルが欲しいならその部位だけ入手すれば付け替えはできる(美品は難しいだろうが)。

そして、この「平成から令和へと改元を迎えるこの時期」に、「私の誕生日」というタイミングと合わせて、さらに「状態のいいNikon Fに出会う」という巡り合わせ。これは買うべきなのではないか。いや買わねばなるまい!買うー!

そんなわけで翌々日の休みにお金をおろしてお店に向かい、改めて見せてもらった。多少の使用感はあるものの、全体的に綺麗である。アタリらしいものはそう見受けられない。側面に少しキズがある程度か。あとは擦れ程度。

レンズはカニ爪があるレンズなら使える、が、やはりオートニッコールを使いたい…。持っているのは50mmF1.4(ジャンク品)と50mmF2(ジャンク品)だ。なんだか申し訳ない。いま欲しいのは20mmか28mmといったところ。商品棚を見るとあるではないか、Auto NIKKOR-H 28mmF3.5が。しかもAi改造済なのでFM2などでも使える。手にとって見てみたが、傷などなくかなりの美品に見える。私は検品する目があまりないので自信がないが、綺麗なものですよとおっしゃっていたのでそうなのだろう。これとフードも合わせて購入した。

ファインダーを付け替えたらシャッタースピードのダイヤルをカチカチ一周させる。レンズのガチャガチャと同じだ。シャッター部分はNikon S2と同じである。

 

これが平成最後の大きな買い物であり、また平成最後に買うカメラとなったのは間違いない。また、いつ買ったかは置いておいて、これからこのカメラとも色んなところにお出かけできるのが楽しみである。先日ひとり古墳公園にカメラを持って出かけた時に、自分がこうして休みのたびに出かけるモチベーションをなんとなく言語化できた。

 

これからもいろんなカメラと楽しんで行きたいところ。1stロールはとりあえず富士フィルムの業務用100を詰めた。

Nikon F Photomic FTnが平成最後のお迎え