するどい光

雨露たくわへNikon Df + AF-S Nikkor 50mm f1.8G

雨に濡れ、するどくなった光と陰が神妙に私に生い茂る。

逆さに映る私はどんどん現実から剥がれ落ちてく今の自分を無表情に見つめてゐる。

表向きを上手くやり過ごすことに躍起になって、自分自身の正しい方にレンズは向いてゐない。

空回りに滑り落ち、目の奥にばかり涙の貯まる夢か。

するどくなった光は暴れまはって夢ばかりに打ち付ける。

するどい光

かの火花

あの実

色づいたあの実、初めて見たのが彼の日。火花みたいだと思つた。花火のやうだとも思つた。誰も砂利を鳴らさない、誰も影を踏まない、静かな石垣の沈んでゆく秋に立つ。夏を見送つたことがそっと耳元に立ち止まり、消えた。花火みたいだと思つた。

かの火花

好きといい写真と写真が好きと

Window

いい写真を撮りたいと思う気持ちはもちろんあるが、その定義がままならぬので、私はとりあえず自分が気持ちいいと思うものが撮れたかどうかを考える。そうして、次はどんな写真が好きかということを考える。

いろんな写真が好きだ。そしていろんな写真、いろんなタイプのものを好きでいい、作っていい。

つい角度を付けた写真を撮ってしまい、帰って来て見ると面白みを感じられないことが多かったりするが、モチーフに正対した写真を私は好むようだ。そういえば、10年くらい前には『正対写真』と称した塊を何かの作品集として出したいと練っていたこともあった。結局形にはならなかった。しかし今でもこういう撮り方を意識してしたくなることがある。

主計町

しかし私は何でも考えれば考えるほど作るものがつまらなくなっていく。構図の理屈を考えるとそれだけになってしまい、ストーリーも感情も上手く込められないのか。なんでだろう。自分自身の空虚さを突き付けられているようだ。私は写真で自分の見ているものを『説明』したいわけではない…。じゃあどうしたいのか?

写真は誰のためのものか。他人のためではない。じゃあ他人ではないもののため、それは自分自身のためか。なんとなくだが私にとっては、自分自身があとからみたときに、その写真をいいなと思うか、あのとき感じた思いってこんなだったなと想起できるというポイントが大事なのかもしれない。まるでメモのようだ。しかし記憶を『説明』するためのものではない。

写真という媒体とそれに関する行為、器具などにそれぞれ想いがあるため、こうして考えていても並行的にそれぞれの考えていることがある。それをひとつにまとめるのは、小学校のひとクラスを一つの言葉で表現し、その定義に縛るような乱暴さがある。縛らないで言うなら自分が楽しむためとは言えるけれど。

好きといい写真と写真が好きと