私の独善的な写真への処方

2019年9月16日 21:32投稿

自己紹介でも少し申し上げましたが、私の写真はとても薄味で、地味なものです。ドラマティックな、華やかなものからは離れたものになっています。意識してそうしているのではなく、少しはきらびやかなものを撮ろうとしても、どうも地味になってしまう、それは私の心根が写されているのだとも思います。もっと若い時に写真の世界に触れていたら、ここで妙な反発心を抱いていたかもしれません。もっともっと人目を引いて、いいねをもらえるような、と。今でもその気持ちは零ではありません。

ですが私にとっては自分とカメラが対話して生まれた写真たち、それらは地味であっても大抵いいなあと思うものです。いいなと思ったものを撮って、いいなあと思える。それで私の中ではある意味完結しています。地味なものは地味なものでよく、それが自分にとって好きかそうでないか、また個々の他人にとって好きかそうでないか、それらは別問題であるということを受入れられています。要するに、私にとっての写真は、私にとってどうか(気持ちいいか)という評価基準こそが絶対で、他者の『共感』(もしくは『反感』)というのはその評価に影響を及ぼすものではないことが正しいということです。実際は私も人間ですので、多少の感情の揺れは否めませんが。

明確にそのことを意識したのはここ数年のことかもしれません。自分の創作するものが広く受け入れられるものではないことはわかった、けれどそれに対して私はどのような気持ちを持つのが、自分にとって正しいのか。そのことを静かに思索しておりました。今現在の私の結論としては、私の創作は自分の世界であり、それは自分こそが中心となって形作ることだ、となりました。どこまでも独善的であるべきだと。これは昔の私と逆の考えです。独り善がりな作品は皆の共感を得られず、自己研鑽の方向性も掴めぬまま、ただ堕落する一方だと怖れていました。(少なくとも家族は全面的に私の詩作にせよ文章にせよ絵、写真を全肯定してくれていましたが)

創作行為やそれに対するスタンスが独善的であることは、その作品の質を決定づけるものではないのだろうと思います。外に評価を求める場合は別だと思います。商業が絡むとさらにいろんな人のことを考えねばならなくなります。どのような対象・範囲・基準で評価されたいのかを分析し、それに応じたものを出すか、すべてを圧倒するようなものを作るかでしょう。私にはどちらも途方もない話なので他人事です。私は否定されて(また周りと比較されて)育ってきましたので、今からでも自分の生み出すものを、自分の感性を肯定したいと思っています。

とはいえ、単純に自分だけがいいと思い続けられるのもひとつの心の強さだと思っています。私にそれはなかったから、長いこと苦しんできた過去がある。どこかでまったくの他人に、少しでいいから肯定されるきっかけを得るというのは、思った以上に大きなものでした。

私の場合、神楽坂で個展をやらせてもらったときに、詩を数十点出しましたが、知らない人にその場でとてもいい、と言葉を頂戴したこと。また別の個展で詩集(の前身のようなもの)を少部数販売していたら、売り切れた後も他の方から欲しいと言っていただけたこと。そしてTwitterで、あまりリプライのやり取りもなかった方も含めていろんな方から、信じられないほど評価をいただいたこと。個々の方の思いはそれぞれでしょうが、私にとっては大きなことでした。私の心を外から強くしてくださった。

私の薄味の写真の裏は、「私、薄明がいいと思った」という文字面だけを見れば傲慢なものですが、それゆえに以前より純粋さを増しています。そんな写真を見ていいなと感じて下さる方は、きっと私と近しい領域を共有できる方と思います。そんな人たちの写真も見たい。

私の写真の見方、私の世界の見方、私にとって写真を撮ること、はじめての詩集(薄明詩集Ⅰ)、各カメラ、各フィルムといったテーマはそれぞれまたの機会に書きたいと思います。どれも何度か書いていることですが、その時の自分で改めて書き出すという行為は私にとって一種のトレーニングになっていますので、読む方がいなくても書くと思います。つい長くなってしまうので、ここまで読んで下さる方もそういないと思いますが、言いたいことがまとまりつかずすみません。

それでは、皆さま、よき写真生活を。