私は石ころみたいな写真が撮りたい

誰もが、みんなが、すごいねとかいいねとか思う写真を撮りたいわけではなくて、
誰しもが目にしているもの――

子どもの頃、道端に落ちているなんかいい感じの石ころを集めていた——

あの「石ころ」みたいな、なんかいいな、いいよねが通じるような
写真が撮りたいのだ


Twitterに書くにも、noteに書くにも、どちらにも中途半端な内容だった。ここがあった。けれど中身は今日なぜかことばに、形になってくれたものだ。私の撮る写真、撮りたい写真がそんなきらきらとしたものでもなく、ソリッドでかっこいいものでもないことは明白だったけれど、ただ退屈な、何を撮っているのかわからないものだということはわかっていた。けれどそれを言葉にして、こういう写真なんですと説明ができなかった。

私は石ころみたいな写真が撮りたい。

今日ふと通勤中の朝日の中を歩いていて、そうだ、石ころだ、石といっても、子供心に魅かれる石はいろんなものがある。つるつるとまるいもの、ごつごつとしたもの、一部に透き通るものを含んだもの、不思議なカーブを描いたもの、それこそ、こうして挙げきれないくらいいろんな石がある。けれど、大多数の人間にとって、決してその子供心の感動は等しく通じはしない。

けれど私が撮る写真、写真を撮る行為はそれに近しいものだということに気づいたのだった。

全ての対象を石ころだと言い放つわけではない。けれど、私が私らしい写真を撮るとき、それはなんだか宝物をになりそうな石ころを見つけたこころもちで、シャッターを切っているに違いないのだった。