詩と写真を残すことについて

屋上

私が好んでつくってゐるものは詩と写真のふたつの分野であります。詩を形にするのは、途方もない無限を相手にするやうで、自身でさえその方法論を確立するには至ってはをりません。写真を形にするにはカメラとその機構は明らかなれど、自分自身が良いと思う写真を撮る方法、またその持論をもつまでは至ってはをりません。

 

過ぎて

部分的に言へば、詩は言葉を要素としてその時の感情、風景、事物、なんでも素材にできますが、それらを自身のフィルタを通して伸ばしたり縮めたりして、表現にして吐き出します。口に出すにせよ書きだすにせよ、そこには音があり、音は言葉のもとであります。言葉をもって、モチーフの要素を切りだしたり、誇張したり、自分の心の向きに応じて作り出す。こうして挙げたのもあくまで詩作のスタンスのごく一部でしかない。詩や言葉は深い海の底のように、とても恐ろしくも魅かれる世界であります。言葉と向き合い、言葉にそっぽを向かれ、言葉にしがみつき、言葉を撫で、ときには叩きつけ、切ったり貼ったりし、そしてまた愛し、言葉に畏敬と侮りを持ち続けて、自分自身やそれ以外とも向き合わねばなりません。

 

石垣のねむり

写真について言へば、これはまたモチーフを、自分の眼がとらえた視覚的空間を主として、カメラ(光をいくつかの方法によって像にして焼き付ける機械)を用いて、その一部やそれ以上の画角を一枚の画に落とし込む。その画もただ切り取るというだけでも、フイルム、レンズ、撮像素子、機械的な色処理、フイルムであれば現像行為やプリント行為によってそれぞれが違うものが出来上がります。出来上がるさうです。目に映るそのままを写しこむことだけでも難しい。しかし我々はカメラと向き合い、その有能さにおのゝき、時にままならぬ相手にやきもきし、自身に絶望したり、うぬぼれたり、忘れたいと思っても忘れられなかったり、他人に左右されない愛をそこに注いだりします。カメラだけでも、私だけでも、どちらか片方では私自身の写真は成り立たぬ。自分の人生と世界を、目も鼻も耳も肌も使って味わって、それをカメラとも一緒に経験するのです。写真はさういふものだと今は思ってをります。果たして10年後や20年後はどう考へてゐるでせうか。

 

波紋

何かのモチーフを、切り取ったり、混ぜ合わせたり、私の眼を通して形を変えて…やっていることは詩と写真で同じやうなことです。そしてどちらも私自身という変わっていく主観をフィルタにして作られるので、同じものは二度と生まれず、書けません。しかし自分の考え方、向き合い方は哲学といってもいゝのかもしれませんが、何度も反芻します。私の頭は、よくできてゐないので、何も考えないと本当に何も考えないでをります。それでも正確さを失って、私自身は変はっていってしまひます。残していくものに、詩と写真が残っていったのは何かしら縁があるのだと思ひますから、私のぼんやりとした記憶のように、どこかに刻み残してゆければと思ってをります。