個展「ambient.」告知

2023年4月以来の写真展を開催します。個展です。

2026年4月11日(土)~22日(水)開場時間は10:00から18:00。木曜日休廊。会場は前回と同じ、金沢のCafe&Gallery ミュゼさまにて。

今回のタイトルは「ambient.」。アンビエントミュージックという単語で耳にすると思いますが、アンビエントというのは「環境」や「~を取り巻く」といった語義を持ちます。しずかな世界の中にも、その空間を取り巻く音たちが存在します。私たちは写真を見てその風景を思うとき、自分の記憶にある、響いていたであろう音を聴く。それは撮影者のものではなく、鑑賞者自身の記憶と結びついています。

在廊予定は土・日・月・水曜日です。都合により不在にすることがあるかもしれません。

多くの方にご覧いただけることを祈っております。よろしくお願いします。

水中

意識の交感が済んだのちに私たちは
白いレースのかゝつた丸テーブルに
向かひあつて、洋間の窓から
降りてゐる光に少しばかり眠気を覚え
回遊を繰り返している白い浮遊物に、
水の中にゐるやうな心持ちがいたしました。

どれだけ時間が經つたかわかりませんが
あなたの唇が動いたぶんだけ、時間が魚の死骸のやうに
白く乾いてゆくにも似た無機な音を届けたのでした。

 

ままごと

いつもその子とのままごとでは
彼女が棺で運ばれるところからはじまり
皆の悲しむ振る舞いを見て
生き返るところのくり返し

その後何事もなく家庭は眠りにつくが
朝がくればまた彼女は望んで棺にいるのだ

この季節の日暮れが高校生の頃を思い起こさせることについて

(2019年9月19日 22:20投稿)

今日仕事が終わって職場を出ると、さすがにもう外は真っ暗で(カバー写真はもっと日が長い頃です)、残暑もどこへいったのかというほど肌寒さを感じました。もう暦の上では秋になって久しいのですから。

 

この季節の、この時間の肌寒さを感じると、毎年私は高校生の頃を思い出します。なぜ高校生なのか。というと、ちょうどこれくらいの時期というのは各学校、学園祭(文化祭)の準備をする頃だと思います。それで暗くなるまで準備や打合せで残っていて、帰るころに校門でメンバーと駄弁ったり、そこでまた、と別れる時のことを思い出すのです。そうして校門のあたりで話をしているときの肌寒さが、どうにも私の高校生活の中でふと思い出させるトリガーとして記憶されているようです。

私は自転車通学でしたので、それは走っているときの受ける風の冷たさはもちろんあるのですが、それ以上にその場の、話をだらだらとして、いつ誰が「じゃあ帰るわ」と言い出すのかもわからず、なんとなく時間を過ごす感覚を思い出します。話に夢中で時間を忘れると言うほどでもない、なんとなく皆が皆、帰るタイミングを見失っているのではないかと思うようなあの微妙な感覚が、思い出として残っています。いいものでも悪いものでもない。

それが、毎年この時期になるとふっと思い出されるのでした。

 

いま私は自分の生活を楽しんでいます。仕事もプライベート(ほぼ写真)も含めです。しかし大学生以前の自分というのはまるで他人の記憶のように、単純に記憶が希薄というよりは、自己自体が希薄だったように思われます。一応表面上トラブルはなく生きていたのですが、どうにも今となっては他人のように思われます。

 

そんなころの私がカメラと出会っていたら、今のように楽しい日々を過ごしていただろうか。当時の自分が人生を楽しんでいなかったわけではないのですが、自分自身の「楽しさ」を表現できていたのかわからないのです。カメラと出会っていたら今の自分みたいになっていたか?それとも、もっとカメラを通じて、写真を通じて、違う人間になっていただろうか。

なんとなくですが、きっと歪んでいたんじゃないかと思います。写真を撮ることが楽しくて仕方ないであろうことは想像できます。しかし、きっと今以上に写真を撮ることが目的となってしまっていただろうと思います。今でも自身の性格の端々に存在していますが、私は「記録する」ということに執着しています。今は意識してコントロールしながら記録という行為をブレンドしていますが、以前はメモにせよ写真にせよ、記録を残すということに対して、心の衝動が強いものを感じていました。それを当時の、若い私がコントロールできたとは思えない。

 

ですから、当時カメラを始めていたら、人間関係を作ってから撮るべき・撮れるであろう写真を、焦って撮ろうとして、関係を破綻させていただろうと思うのです。今でもそのようなことがないよう気を付けたいとは思うのですが、やはり自分自身の核はそう変わらないと思っているので、時折自戒しています。

他人を介在した写真をもし、作品として私が仕上げるのであれば、その人と何かしら話をして、相通じるものを得てから撮った方がいいのだろうなと思います。ただその一方、逆に相手の持つものをそのままに存在させた写真も面白いだろうとも思っています。最終的に、私が気持ちいい、楽しいと思える写真になればいいのですが、いやその予定もないのです。

それでは、よき写真生活を送られますよう。

まちの写真を撮ること

2019年9月18日 21:51投稿

石川県に移り住んで、もう15年ほどになります。かたくなにこの地から離れないのはお魚が美味しいからです。上等な蟹やブリでなくても、普通にスーパーで売っている魚(刺身)が美味しい。北陸最高です。

そんな感じで、実際のところ郷は滋賀県というところなのですが、いまの私の仕事柄、石川県郷土に関することで調べものをしたりすることが多いです。自分にとって郷土と呼べるほど、中に根差したものを持っていないけれども、そういったものに関わっていかねばならないというのはいまだに苦労しています。

仕事で写真を撮ることはほぼないのですが、自分が写真を趣味にしていると、自然と自分が好んで被写体に選んでいるもののひとつに、街並みというものが存在することに気づきました。自己紹介の記事で、

私の写真は大きく分けて、記録としてのものと、対象として撮ったものと、感応したものの三つに分けられます。

と申し上げました。私が街並みを撮るときの多くは、この三つがブレンドされています。撮ろうと思うときは「対象として撮ろう」として、ファインダーを覗く・もしくはシャッターボタンに指を持っていくとき(つまり、「よしやっぱり撮ろう」と思ったとき)は何かしら「感応したもの」をわずかながら吸い込みながら撮ります。そして撮って、上がってきた写真を見ると、それは最終的に街並みの「記録」としての意義を持ってきます。

記録としての意義、それは私にとっては今現在の街並みの姿を残しておくことです。なんだか普通ですね。けれど、冒頭に申し上げましたが、郷土の調べものをしているとき、こういった何気ない街の風景、どこにどんなお店があったとか(また、その業態とか)、人はどんな服装をしていたとか、どんな交通事情が垣間見えるかとか、看板・ディスプレイのデザイン、どんな樹木が植えられているとか、ほんとうにたくさんの情報が詰まっています。そこに私の感情や感傷が存在していようがいまいが、記録としての意義は揺らぎません。

意義は誰に掲げるものでもなければ、誇示するようなものではないと思っています。その人がそうしたいなら信念として持っていればよい。感情や衝動、その人の強い色を乗せた街並みの写真は、それはそれできっと素敵な写真になるだろうと思っています。ですが私はたとい実家の滋賀県であったとしても、いま金沢などの街並みを撮っているのとそう変わりのないものを生み出すだろうと確信しています。自分の生まれ育った地であるということが、果たして自分にとっては強い想いとなるだろうか。それはないように思われました。全く何も感じないわけではありませんが、自分というものの薄みが、却ってどの街中で私を空気にしてくれたら、と願っています。こうしてここに挙げて書いていることで、意義を振りかざしているのかもしれませんが、私は自分自身のことだけを考えるのでいっぱいの人間ですので、それを見ているのもそう多くはないと思います。けれど。

いずれ、(記録としての)意義は意味を持ってくるんじゃないかと思います。それを見出すのはもう少し未来に(これが残存していれば)この写真を見た人や発見した人がすることなんだろうなと思いますので、自分はやはりただ撮ろうと思ったもの、今回の話では街並みになりますが、それをフラットな、素直な気持ちでただ撮ればいいのだと思います。街並みの写真は、撮った直後、たとえDfやD200で見てもあまり達成感などは感じません。帰ってからとか、数日後、下手したら数週間後や数か月後にふと見直すと、そのときの季節の感じも相まって、なんだか街並みそのものを懐かしく、親しみを持って眺めてしまうことがあります。そういうものなんだなと思います。ですので、同じ場所を違う季節で撮り続けることは、私にとって楽しいことの一つです。

街並み写真ごときに郷土を見出すんじゃない、なんて言われるかもしれませんが、私にとっての例えば十年間の見ている景色は、仮に出身地元の十年間の景色と比較したとしても、そう重みは変わらないように思えるのです。考えが浅いでしょうか。けれど私が写真を通して見る姿というのは、ある意味感情さえも希薄なのかもしれません。だからドラマにはならない。しようともしていない。

どのような形で遺していくかは、また別の話です。これこそ撮ったきりでは、電子データの藻屑となるでしょうし、ネガも保管に気を遣うべきでしょうし。

あくまで今回も、私の中の心の動きやバランスのお話でした。何かのテーマについて述べるということは難しいので、だいたいが自分語りになります。ここまで読んで下さった、根気強いあなたに感謝いたします。

それでは、よき写真生活を送られますよう。