口紅

EOS Kiss, EF50mm F1.8 STM, Fujifilm C200

 

あのあかい口紅の子らが風に揺れて笑ふの、

わたしは唇隠すよにして通り過ぎた日

 

ことばと写真

私はこのところも変わらず、いる。言葉はままならない、けれど私はそれによりかかるか、手を繋いで連れて行ってもらうほかない。私が心に決めた、ずっと最後まで付き合うと決めたのがことばという存在だ。

その次が、相手のうちはよくわからないままに十数年付き合っている、写真である。写真も難しいひとだ。私が撮ろうとファインダを覗いた時に、自分が感応したものが写っておらず(それはファインダ外に逃げたというわけではない)、がっかりすることもある。しかしカメラや写真は、私が何かいいなと感応したものを知らせてくれるひとだ。私は自分がその、何に、どこに、どういうところに感応したのかを考える。自分が気持ちよくなったのはどういうところか。自分が切り取った時にそれが気持ちよくなかったのはなぜか。自分の感性を考えさせてくれる道具であり、相手――パートナだと言える。

言葉にも何種類かいて、コミュニケーションのためのことばたちは、ある種の教育を経ているので、そうやんちゃなことはしない。けれど、それらは逆に言えば私自身とは異なる人種である。中には私に寄り添い、私といっしょに相手に話してくれる子だっているけれど…。しかし私がことばと向き合い、振り回され、しかし幸いにも私という実在から吐き出された、(私という固有IDによつて)タグ付けされた、生き物として存在してくれるのは、やはり私のことばだ。

誰かを想う…誰かに、この自分の懊悩を理解してもらいたい、と思う。そのことは大変におしつけがましく、独善的であると思っている。私が写真という作品への向き合い方をどこまでも自分だけが満足するような美しさを目指している側面をもっているように、また、ことばでもってする作品、ありていに言えば詩だ、それもまた、ずっとずっと、自分から湧いてきてはその形を見せつけられて手を入れ、近づいているのだか、離れているのだか、もどかしい想いを鋳だすように形を目指す。

自分の底から湧いてくる音を、まず音をそのままにするのか、言葉にするのか、わたしの詩はそこからはじまる。そしてそれは自分だけに完結するのか、それとも誰かに聴いてほしいのか。私みたいな、私のようなにんげんが!聴いてほしいのだと思う。誰かに知って欲しい、繋がって欲しい、この頭と心の奥から湧いてくる音は、今までずっとことばにしてきた。たくさんの人がはなれていった。けれど私はずっと、このことばという相手と一緒に死んでいかなくてはならない。わかってほしい。しってほしい。

どこまでもまとめられない。写真が、自分のことばのもととなる音とはまた別に発生する、自分自身の感応の表現であることが、最近自分との対話でわかってきた。というか、そういうくくりにしておくことにした。こわいけれど、写真というひとは。いろんなひとの、やさしい写真や、私がことばに自分を写すように、写真にそれを写すひともいる。私もはなしがしたい。ばらばらになってしまう前に、手を繋いで。

 

追伸

今日は5/19だ。5/19は、私にとって特別な日です。本当に生死を彷徨った日です。いまは生きている。不思議です。車に跳ね飛ばされて、意識が戻ったのは翌日だそうですし、ほぼ死んだも同然だったらしいので。いや、自分自身あのとき死んだのだと思っています。生きていることに感謝する日です。

H to R

平成から令和へと渡る。それはひとつの變化でありませうが、かといつて昨日から今日に至つて突然なにか物の見え方から變はるものではないでせう。天皇陛下の譲位に就いては無論おほきな出来事ではありますが、わたくし個人の内面であつたり、その周辺の世界をつくりかへるというとまた違ふものに思はれます。變化といふもの、それが一時代ごと、一年ごと、一日ごと、また一刻一刻に生じてをりますことは、わたくしも理解つてをります。しかし突然視界が開けるやうな劇的なものを、安易にイメエジしては却つて微細な變化を見落とすことになるのではないかと思ふのです。と云つても、その日常の小さな誤差のやうな變化を殊更に強調し乍ら過ごすのはまた大袈裟であり、飽きもしませう。わたくしが大事にしたいと思ふのは、大なり小なりの日々そのものを記録しつゞけてゆくことです。おほきく云へば時代の移り變はり、或いは時代のひと区切りの實感といふのは、その長い記録を振り返るときに生まれるやうに思ひます。平成を撮る、といつたことは、今現在實行されてゐることではありますが、その平成そのものを郷愁とともに實感するには、記録し續けたのち幾ばくか時間が経てからの、一瞬ふと振り返るその時まで得られぬとわたくしには思はれるのです。きつと令和の時代を撮り續けて、何年か、十數年だかしてわたくしは平成の時代を寫眞のなかに見出せるやうな氣がいたします。

Nikon F Photomic FTnが平成最後のお迎え

私は4/14が誕生日だが、色んな巡りあわせの結果、この機会にNikon F Photomic FTnを購入した。Nikon Fはあの尖がったカッコイイペンタ部のNikon Fアイレベルが有名だし、人気があるのだが、かなり値段も高くてそう簡単には買えない。フォトミックはそれに比べると相場は落ち着いている。しかしながらある人からみれば野暮ったい、しかしまたある人から見れば可愛らしいその頭部は、私も最初はえらく大きいものだなあと思っていたのだが、次第に愛らしく感じてきたのだった。

そもそもそれを現物で最初に見たのは写真の文明堂で紹介された時だ。中古で入ってきたのだがシャッター部にやや不良があるということだった。それまではNikon F自体にそこまで興味を持っていなかったのだが、実際現物を触ってみるとどうも関心を持ってしまう。ネットで色々調べたり見ているうちに、その中古でいいから買えないか聞いてみることにした。しかしお世話になっている店員さんからすると、私の集めている傾向やラインナップ、使い方などを考えると、ちゃんとした良品を買った方がいいですよとアドバイスしてくださった。お店の売り上げだけを考えるなら売ってしまえばそんなものだろうが、このお店はこういうところがある。カメラ店以外を含めても、石川県で信頼しているお店のひとつにここを挙げたくなるのはそういう理由である。

そこからしばらく、Nikon Fは心の片隅に追いやって、いつかいいものに出会えたらと他の機材で撮影を楽しんでいた。しかしある日、綺麗なフォトミックに出会う。前からあったのかもしれないが、なんだか吸い寄せられるようにそこへ足を運んだ。値段も少し高めか…?くらいだったが、注意書きを見てみるとなんと「OH済」とある。つまり動作は安心だということだ。それを考えるとむしろ安いのではないか。すぐにでも買いたかった。

だが念のため、一日考えることにした。

もっとよく調べて、アイレベルを頑張って(お金をためてから)購入すべきか? だが私は本当にアイレベルが欲しいのか?確かに格好いい。欲しいは欲しい。しかしそれでなくてはならない、というには動機が不確かであった。比べて、フォトミック機構、つまり露出計がOHできっちり動作保証されていると考えると、普通に使いやすいし、Fをよく知る前はただでかい頭部だった部位も、愛らしい心持ちさえしている。Nikomatと同じくガチャガチャができるのも楽しそうだ。あと、どうしてもアイレベルが欲しいならその部位だけ入手すれば付け替えはできる(美品は難しいだろうが)。

そして、この「平成から令和へと改元を迎えるこの時期」に、「私の誕生日」というタイミングと合わせて、さらに「状態のいいNikon Fに出会う」という巡り合わせ。これは買うべきなのではないか。いや買わねばなるまい!買うー!

そんなわけで翌々日の休みにお金をおろしてお店に向かい、改めて見せてもらった。多少の使用感はあるものの、全体的に綺麗である。アタリらしいものはそう見受けられない。側面に少しキズがある程度か。あとは擦れ程度。

レンズはカニ爪があるレンズなら使える、が、やはりオートニッコールを使いたい…。持っているのは50mmF1.4(ジャンク品)と50mmF2(ジャンク品)だ。なんだか申し訳ない。いま欲しいのは20mmか28mmといったところ。商品棚を見るとあるではないか、Auto NIKKOR-H 28mmF3.5が。しかもAi改造済なのでFM2などでも使える。手にとって見てみたが、傷などなくかなりの美品に見える。私は検品する目があまりないので自信がないが、綺麗なものですよとおっしゃっていたのでそうなのだろう。これとフードも合わせて購入した。

ファインダーを付け替えたらシャッタースピードのダイヤルをカチカチ一周させる。レンズのガチャガチャと同じだ。シャッター部分はNikon S2と同じである。

 

これが平成最後の大きな買い物であり、また平成最後に買うカメラとなったのは間違いない。また、いつ買ったかは置いておいて、これからこのカメラとも色んなところにお出かけできるのが楽しみである。先日ひとり古墳公園にカメラを持って出かけた時に、自分がこうして休みのたびに出かけるモチベーションをなんとなく言語化できた。

 

これからもいろんなカメラと楽しんで行きたいところ。1stロールはとりあえず富士フィルムの業務用100を詰めた。

Nikon FM2 + Ai Micro-Nikkor 55mm F2.8S + FUJIFILM 業務用100, 2019-Feb

夜の想ひがれ果て、
雨を待つ虚ろひにわたくしは、
何処を見てゐるのか知りたいだけ

石畳

雪ちらして石だゝみの鏡割れ、
あかる街燈にそむらんで、
ゆく君の薄きれたる裾尾の。

ゆふべの襟にかぐわしき、
点点と縫ひ跡たどるのみ。
ゆふべの燈りが殘るまど。