ことばと写真

私はこのところも変わらず、いる。言葉はままならない、けれど私はそれによりかかるか、手を繋いで連れて行ってもらうほかない。私が心に決めた、ずっと最後まで付き合うと決めたのがことばという存在だ。

その次が、相手のうちはよくわからないままに十数年付き合っている、写真である。写真も難しいひとだ。私が撮ろうとファインダを覗いた時に、自分が感応したものが写っておらず(それはファインダ外に逃げたというわけではない)、がっかりすることもある。しかしカメラや写真は、私が何かいいなと感応したものを知らせてくれるひとだ。私は自分がその、何に、どこに、どういうところに感応したのかを考える。自分が気持ちよくなったのはどういうところか。自分が切り取った時にそれが気持ちよくなかったのはなぜか。自分の感性を考えさせてくれる道具であり、相手――パートナだと言える。

言葉にも何種類かいて、コミュニケーションのためのことばたちは、ある種の教育を経ているので、そうやんちゃなことはしない。けれど、それらは逆に言えば私自身とは異なる人種である。中には私に寄り添い、私といっしょに相手に話してくれる子だっているけれど…。しかし私がことばと向き合い、振り回され、しかし幸いにも私という実在から吐き出された、(私という固有IDによつて)タグ付けされた、生き物として存在してくれるのは、やはり私のことばだ。

誰かを想う…誰かに、この自分の懊悩を理解してもらいたい、と思う。そのことは大変におしつけがましく、独善的であると思っている。私が写真という作品への向き合い方をどこまでも自分だけが満足するような美しさを目指している側面をもっているように、また、ことばでもってする作品、ありていに言えば詩だ、それもまた、ずっとずっと、自分から湧いてきてはその形を見せつけられて手を入れ、近づいているのだか、離れているのだか、もどかしい想いを鋳だすように形を目指す。

自分の底から湧いてくる音を、まず音をそのままにするのか、言葉にするのか、わたしの詩はそこからはじまる。そしてそれは自分だけに完結するのか、それとも誰かに聴いてほしいのか。私みたいな、私のようなにんげんが!聴いてほしいのだと思う。誰かに知って欲しい、繋がって欲しい、この頭と心の奥から湧いてくる音は、今までずっとことばにしてきた。たくさんの人がはなれていった。けれど私はずっと、このことばという相手と一緒に死んでいかなくてはならない。わかってほしい。しってほしい。

どこまでもまとめられない。写真が、自分のことばのもととなる音とはまた別に発生する、自分自身の感応の表現であることが、最近自分との対話でわかってきた。というか、そういうくくりにしておくことにした。こわいけれど、写真というひとは。いろんなひとの、やさしい写真や、私がことばに自分を写すように、写真にそれを写すひともいる。私もはなしがしたい。ばらばらになってしまう前に、手を繋いで。

 

追伸

今日は5/19だ。5/19は、私にとって特別な日です。本当に生死を彷徨った日です。いまは生きている。不思議です。車に跳ね飛ばされて、意識が戻ったのは翌日だそうですし、ほぼ死んだも同然だったらしいので。いや、自分自身あのとき死んだのだと思っています。生きていることに感謝する日です。