最期に食べたいもの

Inaho

Aboutのページに書いてあるが、私個人のサイトというのはかれこれ20数年形を変えて続けている。しかしサーバーはいくつかを転々としており、それらはもう消えてしまっているので、バックアップにとってある一部のコンテンツが私に確認できるすべてである。

その中に、通常見るに堪えない「日記」と類される文章が多分に含まれてはいるのだが、時折読み返す。実際のところ、今もそう書いていることはかわっていないのだ。しかしなんだろうか、今ここに書いているのは他人のリアクションを前提とはしていない。リアクションを求める言葉は大体にしてSNSに書き込むような使い分けになっている。けれど当時はそんなものはなかったし、日記の内容に対して据え付けてあるBBSに書き込みがある、あるいはメールが飛んでくるなんていうこともあったのだった。懐かしい。

大体は今の自分が創作という分野で、殊更に10代の頃の発想の若々しさ(ひとはそれを痛々しさとも言うかもしれない)をベースに作り上げているけれど、当時の日記やらなんやらは、創作ではなく自然とそういう、なんだろう、わかっていないが故のわかっているかのような口ぶりを、大仰な言葉で発信している。しかし自分の感覚で受け止めていないものをそうやって拡大解釈して大声で叫ぶのは、今の私にとっては恥ずかしいものだが、逆にそれが「自分の感覚で受け止められているもの」であったなら、それはとても素敵で、羨ましくて、その瑞々しい感性をどうか恥ずかしげもなく創作という分野に誰構わずぶちまけてみてほしかった。結果としては、なかったのだが。

創作という分野はさておき(また書くだろう)、2004年12月のブログに、「至福の味(UNE GOURMANDISE)」というミュリエル・バルベリ著、高橋利絵子訳、出版は早川書房、2001.7.20初版の本を読んだ感想が書いてあった。(感想の大体は児童の感想文に等しいものであった)

ちなみにこの話は、高名な料理評論家である主人公は、友人の医者から残りの命が48時間ということを告げられる。それから病の床に伏したまま、彼は死ぬまでに、今までで最高の料理をもう一度思い出したいと願う。しかしその味は、名声を得るための食事の陰に隠れて思い出すことはできない。各章で彼と、その周りの人間たちの視点で交互に語られ、彼の「味」に対する回想が細やかに述べられていく。最期に思い出した味は…という話。

私の感想としては実際に余命48時間にならないと、本当に食べたいものはわからないのだろうなあなどと言葉を濁してはいたが、最後に、

私なら多分、炊き立てのご飯がもっとも好きだと思います。今思い出すだけでも幸せになってしまったり。おかずはいらんのですよ、ご飯だけで、もー。

と書いていた。先日H氏と、借りた本「おあとがよろしいようで」(オカヤイヅミ著)のテーマである「最期の日に何を食べたいか」という話をしていて、私はこの十数年前の自分の日記のことなどすっかり忘れてはいたのだが、やはり「炊き立ての白米が食べたい」と即答していた。ぶれていない。

何故炊き立ての白米なのかは説明したところでナンセンスだろう。伝わる人には伝わるし、そうでない人には伝わるまいと思う。特に実家でコメを作っていて、それを食べて育った人で私と同じ答えに到達した人は、近しい考えを持っているかもしれない。