カメラは楽しい。フィルムも楽しい。写真が楽しい。

カメラは楽しい。フィルムも楽しい。写真が楽しい。

Twitterに書いていたら140字を超えたのでここに書いておこうと思う。

楽しんでいることを、カメラで撮らない人にもわかってもらいたい気持ちがある。押し付けるつもりはないけれど、興味があるなら是非実際に触って欲しい。好きに撮って欲しい。人に迷惑かけなきゃどんな撮り方でもどんな写真だっていい。楽しかった? ならそれだけでいい写真だと思う。写真は何が写っていた?どんなふうに写っていた?何を思っていた?何を思った?何も思わなくてもいい。とりあえず撮ってみてほしい。高いカメラである必要はないし、フィルム関係もコストは上がって来てはいるけど、遊びだから無理のない範囲でやってみるといい。だって今しかできないかもしれない。私は多少の無理はしているけど後悔はしない。言い切れないか。後悔は後からするもの。今私はめっちゃ楽しい。もやもやも苦しいもたのしい。

 

写真を見る。

もうたくさんの人が言っていることだけど人にいいねされるのは承認欲求を満たす意味でも気持ちいいし、その人が写真を見てくれたんだというコミュニケーションの意味でも嬉しい。いいねがたくさんついている写真に「おおー」だとか「すごい」とか「綺麗だな」とか感嘆するものがあるけれど、もちろんついていない写真にも同じように感嘆するものはある。これは当たり前のことで、自分が好きな感じの写真にいいなと思うから・好きだなと思うから、感動(心が動かされる)する。自分がだよ、他人がじゃないよ。

 

写真を撮る。

デジタルでもフィルムでも何でもいい(写真に限らなくてもいいけどここでは写真に限定して話をしよう)けど、自分が撮った写真すべてが自分の好きなものであるわけではない。けどその中に時折、人によってその打率はそれぞれだろうけど、好き!というのが撮れることが出てくる。これが気持ちいい。一気に気持ちを持って行ってくれるものもあれば、じわじわと好きになるものもある。どちらにしても自分が撮った愛らしい写真だろう。そこに上手い下手の基準を無理に押し当てる必要はない。好きなものは好きでいいと思う。(向上心から、他者の客観的意見や批判、刺激を求め、それによって研鑽することを否定するものではない)

写真の技術的な上手さというのはいくつかあるけれど、私からするととりあえず自分の撮りたいような構図、露出で撮れればそれは相当に上手い。カメラ本体の技術に手助けしてもらってもいい。でもその一方で自分の想定していなかった写真が出てきたら、それだけでも改めてその写真をよく見てみる価値はあるし、面白い。フィルムは現像するまで見られないからなおのこと。どうにも気に入らない写真だったなら、別にそれを加工材料にして何か別の写真に生まれ変わらせてもいい。思い通りの写真が撮れたら、その写真を生んだ環境と技術への感謝、そして少しでもその感覚を体になじませたいと思う。

記念写真、記録写真、スナップ、ポートレート、風景写真、なんか写真はいろいろジャンルがあるらしいけど、なんでもいい。自分が撮りたいものを撮ろう。私は何を撮っているんだろう。わからない。わからないけどシャッターを切りたいと思ったので撮っていることが多い。その中で街並みの記録がこれから先何十年かして、自分や誰かの記憶を思い起こさせる材料になったらいいなとは思う。だから記録写真は数と積み重ねが質をあげていくと思っている。家族写真は撮っておいた方がいいと思う。私は撮っていないが、自分の親たちが撮ってくれていたのを今になって感謝している。気づくのが遅すぎた。祖父に申し訳ない思いを持っている。

 

写真を受け入れる。

あなたは自分の写真が大好き!と声高に叫んでいい。私も自分の写真が決して万人受けはしない地味なものだと知っているが、他人がいいと思う写真が私の好きな写真とイコールである必要はまったくないし、私の写真を他人が好きでいなければならないなんて可笑しいだろう。大好き、というか、愛おしい、だ。私は自分の写真を愛おしいと思う。自分の書いた詩や言葉を愛おしいと思うのと同じだ。他人がそれを受入れたり、気に入ったり、気に入らなかったりするのとは別問題である。

自分の写真を嫌ったりすることも、あるかもしれない。一部か、全部か。どちらにしてもそれを好く好かないかが自由である。その時の自分の心持ちが起因しているのかもしれないし、技術的な未熟さによるものなのかもしれない。

 

カメラと向き合う。

カメラは一台とじっくりつきあってもいいし、私みたいにあれこれ使いまわしてもいいし、中には次々売って買って乗り換えていく人もいるだろう。シンプルに考えれば写真を撮るという行為ではカメラは道具であり自己と対象の間で時間と光を経由させる手段だ。だから自分に合ったものを好きに使えばよい。どこのメーカーのどのカメラやレンズでないとまともではないというようなことはない。用途によっては適した機体はあるだろうけれど。自分の作風と自分の感性にあったものを使うのがよい。個体への愛情、あるいはカメラという機構分類への愛情、メーカーへの愛情。愛にはいろんな形があるとは言うが、時としてひねた形をとったとしても、それを他人の愛着に対して用いたりぶつけたりして、結果的に他者の領域に土足で踏み込むような真似をすべきではないだろう。

べき論ばかりだと楽しくはないか。けれどカメラは楽しい。写真は楽しい。フィルム写真を始めたのは昨年の夏の終わりだったか。上手く説明は出来ないが、デジタルとフィルムはやはり違うし、フィルム同士もそれぞれ異なる。それまでD200からDfに乗り換えて、やっぱりフルサイズのデジタル一眼レフの写りはすごいなあ、なんて思っていた。けれどフィルム写真が楽しくて仕方なくなって、次第にデジタルもセンサーの違いはフィルムの違いみたいなものだあと思うようになった。D200の写りが地味に見えてしまった頃もあったが、今はD200というフィルムを使う感覚で撮っている。Dfもまた然り。そうなるといろんなデジカメも、それぞれのフィルムが詰まっているみたいな感じだ。正確には撮像素子と書けばいいのだろうけど、それだと私が捉えたニュアンスとまた違うので。

そうなるとフィルムもまた甲乙をつけるようなものでもなくなってくる。自分がが好きか嫌いか。写真をやっているとどんどん世界は自分中心になる。だって自分が好きか、嫌いかでしかないのだ。偶然にも他人とそれが重なれば共感というものだろう。だから他の人が撮った写真でとても好きな人はフォローしておっかける。投稿される写真を楽しみにする。中にはブロックしてくる人もいるが、写真を、作品を見たいなあと思う。私が気持ち悪いのはわかる。

 

写真楽しい。撮っているときが楽しい。撮った写真を見るのが楽しい。人が撮った写真を見るのも楽しい。好きな写真を探すのも楽しい。人がカメラを、フィルムを、写真を好きと言っているのを見るのも大好きだ。また中身を推敲して改めて書き出すかもしれない。長い呟きになった。