私は頑なな人間だらうか。それとも、その頑ななものの存在さえ知らない、浮付いた人間だらうか。
昨日の自分は今日の自分とは違ふのだらうか。昨日と今日の境目がどこにあるのだらう。さういふ意味ではこれを書く前と書いた後でさえも私は違う人間なのかもしれない。だが、そうではない、同じ人間だ。私は個性的な人間か、それとも無個性な人間か、という問ひは飽くほどしたし、これからもするだらう。或いは私はその一連の問答を一つの休憩や気分転換として行ってゐるのかもしれない。答えは大抵、私がたとい、あらゆるものから逃げ出したとしても、私自身からは逃げることができないといふことだった。惱み、空虛にならざるを得ない自分に囚われ續けてゐるのは、わかりきってはゐることだが、そこに何かきっかけがあって、私が何らかの變化を遂げるのではないかという希望があるからこそだ。だから私は人と知り合ひたがる、また、その人を知りたがるのかもしれない。
今年に入ってから、毎晩夢をみてゐる。起きたときそれらをあまりに明確に覺えてゐるので、私が二つの世界をいったりきたりしてゐるかのようにさえ錯覺する。ある人は私に訊く。「あなたは普段なにをしてゐるの」 答え、私は眠ってゐるのだ。
現實が扁平に感じられる、といふことではない。夢のそれがあまりに… そこで私はまた言葉を失ふ。私は夢に執着したいのか? その誘惑が徐々に私を捉えつゝあるやうだった。
多くが捻じ曲がってゐる私の中で、それらの歪な言葉でもって私は自身を見極めようとしてゐる。それは難解なことだ。だが他の人間の言葉では、私はしっかりと定まることは出來ないだらうし、いつかそれは破綻する。だからといって私が外の何物にも不適合かといふとさうではないはずだ、と思ひたい。その爲の生き方を少しでも身に付けやうとしてきた、はずだ。力を抜いて、相手を緊張させず、私は全てを観察せねばならない。
もし私がなんの苦といふものを感じないでゐられる相手に出會ひ、そして惹かれたならば、私の現實はまた一變してしまふに違いない。人はそれを、逃避と呼ぶのだらうか?惹かれる事には抗へないのに。
書いても書いても、書き足りない。私は決定的な何かを避けてゐるか、それを直視できず…言葉に出来てゐないのだ。昔はこうではなかった、本当に見えてゐないから、言葉にすることは決して怖れてゐなかった、書けてゐた筈なのだ。わからない。
以下2016.10.28記す
この頃はかういつた事ばかり考へては、前を向けずに、ただ眠っては逃避することを繰り返してゐたやうに思ふ。今も決してポジティブな思考に變はったわけではないが…。現實の仕事への適應と同時に、自我のゆらぎ(大もとは親との確執によるもの)に苦しんでゐたのは確かである。そして言葉を捏ね繰り回して、半ば自分を慰めたり誤魔化したり、さういった方向に時間を割いてゐたのだらう。そして残念ながら本氣で頼りきるやうにして相談できる相手が居なかったのではないか。ネット上の相手には遠慮し、現實の周りを見失ひ、どうしやうもないと思ひこんでいたふしがある。
今の私も決してまともな大人の人間になつたとは云へないが、そこまで自我に拘泥する必要はないのだと、當時の自分には傳えたいと思った。