2005.9.6

夢の色は雨の色

あ、雨の色って好きですか
雨に色なんてない
そうでせうか
私はあると思ひます

雨の、一面うすぐらい雲に、覆はれた世界のグレー
あれが雨の色なんだと思ひます
多分好きな人はあまりゐないと思ひます
少なくとも私はさういふ人に會ったことがありません
でも聞きたくなるのです
もしかしたら、その人は私の氣持ちを解って呉れるかもしれないと
そんな風に希望を抱くのです
私の夢の中の色は、いつも雨の色です
どんなにいゝ夢も、厭な夢も、いつも雨の色です

雨の匂ひ、あれはアスファルトの匂ひが浮いてくるのだと聞きました
でも山や草木、海や川、もちろん道路や田んぼ道いろんな匂ひを浮き立たせてゐます
私は雨の匂ひが好きです
雨の日に出歩くことを特に好むといふよりは、雨の日といふ、そのものを好みます
勿論晴れた、すかっとした、そんないゝ天気、といふのも大好きです
けれど今日は雨の日が主役なのです
雨は私自身を空気に溶け込ませます
思ひ出も、思ひ出ですらないことも、雨は呼び起こします
雨は哀しいだけの象徴ではないでせう
少なくとも私にとっては (それぞれの人にその答えはあるのでせう)

あなたは、雨の色、雨の匂い、雨の日は、好きですか?

2005.9.8

颱風

前に進むのが、息をするのが辛いほどの颱風の風を、いつも穏やかだった日本海が、あれほどまでに表情を変えてしまふのを、私は新鮮な驚きをもって迎へることになった。

何度も私はここにきて海といふものに感動してゐるが、テレビや写真で見る荒れた海と、実際にここにきて見る海は全く違ふ。本當に全然違ふ。圧倒的なエネルギーを感じた。

2005.7.28

仕事の途中でお客さんを車で送っていったのだけど、職場に戻るとき丁度夕陽が、もっともその名前を誇れるやうな姿になってゐた。私は運転していた車を脇に停め、それに見入った。夕陽だけならば、そこまで見入ることはなかっただらう。しかし視界の多くに広がる海が私の心を否応なしに揺さぶった。言葉もない。胸の奧、いや、喉元が急に締め付けられたかのやうな感覺に襲はれた。

海面に、赤赤とした筋がこちらへとのびている。振り返れば、私からは黒い影が路上へと延びてゐる。私は独りなのだと思った。風は止んでいた。

車に乗り込んだあと、私の脳裏に浮かんだのは夢に出てきたあの人だった。同時にやるせない気持ちになる。

夕陽が私を重くしてゆく。

2000.5.31

雨が降ってゐる、しとしとと、我々に沈み込んでくる、また、昇華してゆく。決して激しくないそれは、いつものやすらぎを冷やゝかなその母胎に収めて呉れる。私は空を見上げては雨の事を思ふ。それは雨に過ぎない。そして雨である。雨であるがゆえに、それは我々とは別のものになってゐた。
人は人を見放すが、雨は人を見放さず避けることはない。降ってゐる間に限って、降ってゐる間だけは、雨はいつまでもそこにいる。

そして僕は雨が好きだ。


以下2016.10.28記す

九〇年代から既に、何度も雨を好む描寫を繰り返してゐたやうで、これもそのひとつである。

2005.2.12

私は頑なな人間だらうか。それとも、その頑ななものの存在さえ知らない、浮付いた人間だらうか。

昨日の自分は今日の自分とは違ふのだらうか。昨日と今日の境目がどこにあるのだらう。さういふ意味ではこれを書く前と書いた後でさえも私は違う人間なのかもしれない。だが、そうではない、同じ人間だ。私は個性的な人間か、それとも無個性な人間か、という問ひは飽くほどしたし、これからもするだらう。或いは私はその一連の問答を一つの休憩や気分転換として行ってゐるのかもしれない。答えは大抵、私がたとい、あらゆるものから逃げ出したとしても、私自身からは逃げることができないといふことだった。惱み、空虛にならざるを得ない自分に囚われ續けてゐるのは、わかりきってはゐることだが、そこに何かきっかけがあって、私が何らかの變化を遂げるのではないかという希望があるからこそだ。だから私は人と知り合ひたがる、また、その人を知りたがるのかもしれない。

今年に入ってから、毎晩夢をみてゐる。起きたときそれらをあまりに明確に覺えてゐるので、私が二つの世界をいったりきたりしてゐるかのようにさえ錯覺する。ある人は私に訊く。「あなたは普段なにをしてゐるの」 答え、私は眠ってゐるのだ。

現實が扁平に感じられる、といふことではない。夢のそれがあまりに… そこで私はまた言葉を失ふ。私は夢に執着したいのか? その誘惑が徐々に私を捉えつゝあるやうだった。

多くが捻じ曲がってゐる私の中で、それらの歪な言葉でもって私は自身を見極めようとしてゐる。それは難解なことだ。だが他の人間の言葉では、私はしっかりと定まることは出來ないだらうし、いつかそれは破綻する。だからといって私が外の何物にも不適合かといふとさうではないはずだ、と思ひたい。その爲の生き方を少しでも身に付けやうとしてきた、はずだ。力を抜いて、相手を緊張させず、私は全てを観察せねばならない。

もし私がなんの苦といふものを感じないでゐられる相手に出會ひ、そして惹かれたならば、私の現實はまた一變してしまふに違いない。人はそれを、逃避と呼ぶのだらうか?惹かれる事には抗へないのに。

書いても書いても、書き足りない。私は決定的な何かを避けてゐるか、それを直視できず…言葉に出来てゐないのだ。昔はこうではなかった、本当に見えてゐないから、言葉にすることは決して怖れてゐなかった、書けてゐた筈なのだ。わからない。


以下2016.10.28記す

この頃はかういつた事ばかり考へては、前を向けずに、ただ眠っては逃避することを繰り返してゐたやうに思ふ。今も決してポジティブな思考に變はったわけではないが…。現實の仕事への適應と同時に、自我のゆらぎ(大もとは親との確執によるもの)に苦しんでゐたのは確かである。そして言葉を捏ね繰り回して、半ば自分を慰めたり誤魔化したり、さういった方向に時間を割いてゐたのだらう。そして残念ながら本氣で頼りきるやうにして相談できる相手が居なかったのではないか。ネット上の相手には遠慮し、現實の周りを見失ひ、どうしやうもないと思ひこんでいたふしがある。

今の私も決してまともな大人の人間になつたとは云へないが、そこまで自我に拘泥する必要はないのだと、當時の自分には傳えたいと思った。

2005.1.13

『クンパルシータ』

京都は木屋町通から高瀬川を渡ってすぐ、その不思議な雰囲気の喫茶店の看板が目に入りました。『クンパルシータ』。そのまゝ足を店の方に向けて前まで行くと、一人のおばあさんが鍵を閉めてゐるところでした。もう今日はお仕舞いですか、と訊くと驚いて振り向かれ、首を横に振りました。
「今電気をつけますわ」
丁度買い物に出掛けやうとしてゐたところだったらしく、どうしようか迷ひましたが中に入らせていただくことにしました。暗くて、まだ何も見えない。少しして、ふわっと橙のあかりが店内に点ると、昭和の空気がそこにひろがつてゐるやうに感じました。私が昭和を生きて來たわけではないのに、今とは違ふものが在るのを感じずにゐられない。

再びヒーターを点けられ、殘ってゐたぬくもりが再び息を継ぎました。外は寒いですから、この暖かさが有り難い。ひとり、奥のソファに腰を掛けて、周りを見回しました。調度品が素敵なのです。しっかりとしたつくりの諸々、アンティークの薫り。テーブルも、椅子も、照明も。そしてしばしおばあさんと歓談して、彼女がテープをかけました。“La Cumparsita”(ラ・クンパルシータ)。このお店の由來の曲ださうです。樣々なバージョンの録音で流れました。この喫茶店ではBGMはタンゴなのです。プレイヤーの横には山のやうにテープやレコード、CDが並んでゐます。

ブレンドを頼んでから、非常にじっくりと時間をかけて淹れておられてました。せっかちな人はやめてをいた方がいいかもしれません。今年でお店を始めて五十八年とか。あと二年で六十年!驚きました。おばあさんはいくつなのでせう。八十を越えているのでせうか。お店を始めた當時は戦時中で今のやうに問屋もなく、なんとか手に入れた豆も、焙煎するところから始めてゐたそうです。若い女性のお客さんに、珈琲豆は茶色いあの豆が木に成ってゐると思っていた、と言はれて笑ひました、と言っておられました。日本では珈琲豆って殆ど栽培されてゐませんものね。

珈琲を飲みながら、私は馴染みのなかったタンゴをじっくりと聽きました。しかしどうでせう、不思議と私はこの音樂を氣に入ってしまひました。お店の雰囲気に圧倒されたのかもしれません。私自身の音楽の趣味はよくわかりません。このお店に來る人たちは、大抵タンゴには詳しい方が多いらしく、私が殆どわからないと云ふと意外さうな顔をされてゐました。でも、次にかけてくださったレコードは、日本の方がアルゼンチンで一九八二年に演奏したもので、”La Punalada”や、”Recuerdo de luna azul” といふ曲でした。どちらも心地よく、それでゐてどこか高揚させられる、新しい何かに出會った氣分でした。音樂がそれほどに良いのか、それともこの喫茶店の雰囲気が私の心をそうさせるのか。お店を出るときに、また來ます、と云ひ、歸りました。必ずまた來たいと思ひました。でも休みが不定期らしいので、閉まってゐたら殘念だなア。


2016.10.28以下記す

過去の日記からこの散文をコピーして來て、氣になつてネットで調べてみると、このママさんは二〇一一年に亡くなられたといふ。この日記を書いた當時でさへお年を召していらしたので、仕方ないこととは云へ、寂しい思ひです。お店も閉店となりました。