カメラ五台

先日Nikon F-401QDを譲っていただいた話を書きましたが、その一週間ほどのちに、また別の方から「薄明さんに引き取って欲しい」と長いこと仕舞いこんでいたというカメラを譲っていただきました。最初1台だけと思って、それも恐縮しつつも嬉しく、喜んで受け取りに行ったのですけれど、受け取った紙袋の重さに驚いて中身を拝見したところ、5台も入っていたのでした。しかしどれもいわゆるレンズ交換式一眼レフというわけではなく、それぞれタイプの異なるカメラでありました。最初聞いていたカメラは比較的状態もよく、レンズもかびていないようでしたが、その他はそれなりに時間の経過を思わせる状態であったのでした。(以下の写真は清掃済みのものです)

まず一台めが、その聞いていたものです。CanonのAE-1というレンズ交換式の一眼レフです。プログラムオートの機能も備えた、電子式シャッターのものです。1976年4月発売のカメラです。電子制御式ですので、電池がないとシャッターを切ることができません。電池の場所が最初わからず、交換に手間取りましたが、外付けグリップのような蓋を外すと、その下に電池室がありました。今までつかってきたカメラの中で、初めての配置です。モルトはご多分に漏れず激しく劣化していましたので、全体のホコリや汚れ除去ののち、モルトも無水アルコールで除去しました。張替えの作業まで行っていないので試写もまだですが、MFのCanonのカメラは初めてなので、FDレンズも初めて、それもまた楽しみです。

二台めは、ミノルタのハイマチック(minolta HI-MATIC)初代です。下さった方も定年をもう迎えていらっしゃる方ですが、その親御さまが使われていたらしい(ご本人は使っていなかった様子)ものです。1962年生まれ。初めて宇宙に行ったカメラとして有名だそうです。向かって左上のぷにぷにしていそうな硝子窓を思わせるセレン受光素子を使ったプログラムEEのカメラです。一応SS1/30で絞り変更はできるのですが、巻き上げてからでないと絞りを変更できないので、無理やりそこを回して故障している個体が多いんだとか。これが一番外観と中身ともに汚れやモルトの劣化が激しく、少々難儀しましたが、磨きおわりましたら中々の美形です。モルトを貼ったら、ちゃんと動くかどうか試写してみたいところです。

三台目はOLYMPUS L-1です。正面からだとL-1とわかりませんが、向かって右側側面に大きくロゴが入っています。非レンズ交換式の一眼レフ(一時期ネオ一眼という呼び名もあったように思います)です。焦点距離は35-135mmで、f4.5-5.6ですので明るいレンズというわけではないのでしょうけど、レンズの素材というか性能はいいものらしいです。電池はEOS Kissと同じCR123Aを二つ。これはモルトの劣化もなく、グリップ等のゴムっぽい素材が白っぽくなりかけてはいますが、すぐにでも使えそうな感じです。ハンディカムのような感じです。大きい。

四台目は驚いたことにOLYMPUS XA2でした。てっきりストロボかなにかと思って、帰ってから確認しましたらXA2が出てきてびっくりです。私が持っているのはXAですが、これはその後継機で、絞り優先オートができなくなり、二重像でピントを合わせるのではなく目測距離のゾーンフォーカス式になったものです。持っているカメラでタイプが似ているのはピッカリコニカでしょうか。電池はLR44を2個で動くようです。

OLYMPUS XA2についてはこちらのサイト(モノクロフィルム写真館)この記事が好きです。読ませてくれます。

最後の5台目がまた開けて驚いたことに、110(ワンテン)フィルムを使うカメラでした。Kodak TELE-INSTAMATIC 608というものです。説明書がなく、Web上の情報を漁ってなんとなく使い方を理解しました。いつもお邪魔しているカメラ屋さんでも110カメラを取り扱っていて、Canonのものが置いてあったのを少し触ったことはあったのですが、所有したのは初めてです。それにCanonのはもっといろいろレバーやボタンがあったのですが、こちらは非常にシンプルなつくりです。シャッタースピードは1/125固定、f11固定、というような感じなのかもしれません。買ってきたLomographyのフィルムは200なので、EV=13くらいで適正露出と考えればいいのかもしれません。つまり明るめの曇りの日(13)から、快晴(15)とまではいかないけど晴れ(14)、という具合か。室内では難しそうです。現像代がいくらくらいか聞いておくべきでした。東京に送るとは聞きましたが。

どれも清掃は終わり、あとはモルトを貼る、電池をいれるなどの待機状態。はやく試し撮りがしたい。

ちよつとした心の動きは寫眞で

ちよつとした心の動きを感じたら、シャツタァを切つてよい。さういふ、小さな心の感應を、寫眞といふ繪で殘してをく。

大きな心の動きは、その糸目を、紙といふ繊維に縫い付けるやうに、言葉にして殘してをく。丁寧に、時として、叩きつけるやうに。

寫眞でもよいのですけれど、私にはその一枚繪でナミのおほきさを表現するのは難しいですし、言葉の儘ならぬもどかしさは却つて自分らしいなと自己愛に溺れることもできるのですから。小さな動きもまた、うまく云ひ表せなくて、むず痒い思ひをしてをりますけれど。

わたくしは、じぶんじしんと、じぶんがうみだしたものを好いてくれるひとをだいじにして參りませうね、すぐにじぶんをきらいになるひと。

気持ちというものは、ただひとつの方向だけに動いているわけではないということ

タイトルの内容を、そんなにたくさん、分かりやすく書いているわけではない。なので、そういうことを考えたり知りたい人は読むべきではない。時間の無駄だろう。そして、そういうことをは自分でじっくり考えて、言葉にしてみるといいと思う。簡単に言い切らずに、わざと回りくどい言い方をしたり、否定してみたり、肯定してみたりするといいと思う。言葉の網目をかえて、自分の気持ちをなんども掬い上げてみると、どこかで(少なくとも現時点の)自分のスタイルの粗型みたいなものが見つかる、かもしれない。

EOS Kiss初代は知り合いのデザイナーさんのお古(というか新品)を買い取ったものだが、フォロワーのo-motoさんからEF50mmF1.8STMを譲っていただいた。o-motoさんは主にストリートスナップを撮られている方だ。スピード感がある方である。写真それぞれには違った見え方やテンポが感じられるが、勝手にそんな風にイメージを持っている。

キットレンズのズームレンズで最初のテストフィルムはKodak GOLD 200を撮っていたが、今回はフジのC200にした。レンズが変わると比較にはならないが、まあせっかくなのでキヤノンのレンズでの色味も見てみたい。露出はマニュアル、露出優先、プログラムオートどれも使ってみた。どれがどうとかは覚えていない。

ただでさえ軽いEOS Kissだが、このレンズもまた単焦点レンズのため、軽い。コンパクトフィルムカメラかというくらいの軽さである。

上の写真はデパートの入り口のガラス戸に朝日が落ちていて、丸い影を落としていた。並んでいる丸、そして影。並んでいるものは写真のモチーフにとりやすい気がする。線形配置に興味がある? そうでもないか。いや円形配置よりは線形の方が好みかもしれない。私がこの写真を撮るときに思ったのは、朝日が強かったためか影が薄ぼんやりとしていた、それが丸型で面白いなと思ったのだ。配置については撮ってから気づいたのだった。となると私が見ていたのは全体の構図というよりは、個別モチーフの質感であったのだろう。構図はもうちょっと練るべきだったか。この時迷いはなかった。時間がなかったのもあるが、撮りたいと思ったときにはカバンからEOS Kissを取り出していたし、時間がないからファインダーを覗いてプログラムオートで撮った。それでよかったのだと思う。悩んでいたら質感から心を離してしまっていただろう。

意外に歩いていても猫と上手く遭遇できない。能登にいたときは、休みの日に歩けばほぼ確実に出会えた。金沢に住んでいる今やレアケースだ。この日たまたま見かけた猫も、初対面だったのもあって、私を見てすぐに逃げてしまった。しかし潜り込んだことで安心したのか、しっぽが出たままであった。私は名残惜しい気持ちでファインダーを覗く。しゃがんでのぞき込むようにしてしまえば、ここから去ってしまうだろうことは想像に難くない。この写真の主題はもちろん猫のしっぽなのだが、個人的に日陰の青い色合いと、砂利の光の当たっているあたりの質感がいいと感じた。猫の描写がかなり黒つぶれで、存在感を出すことが難しかった。一応縞模様があることはわかる。

雨の日で、もう旬が過ぎた椿の葉をほぼ開放(多分f2とかそんなだ)で撮った。中心は白飛びしてしまっているが、その左のあたりはシャープ、後ろはぼかし過ぎたのだろう。しかし全体的にとろりとふわりと、無補正依頼したにも関わらず濃厚な描写である。AFはしゅっしゅっときびきび動く。

存在感のある写真、そういうものが撮れたらいいなとは思う。しかしどうも私が夢中で撮って、いざその結果を見てみると、そういうニュアンスのものはないらしい。なんかわからんが切り取った、そんな印象の写真が多い。或いは、図鑑のように対象のみが過度にフォーカスされた写真である。難しい。そういった写真から少し気を付けるように、多分気持ち距離を引いてシャッターを切ることがある。しかし単に物理的な距離を引いただけでは、写真の質はそう大きく変わらないのだ、ということを実感する。

心乱されないように写真を撮りたい、という言葉は私の中に確かにある。しかし写真を撮るときは意外と乱されてはいないようだ。むしろどちらかというと静かな時の方が多いかもしれない。結果が上がって来て舞い上がる。心は上昇し、自己愛の塊のようになって私は写真に余白を付ける。しかしいざアップロードするくらいになってくると、タイムラインにひっきりなしに流れ続ける数多の写真に、自分という(自分の写真という)存在感がどうにも頼りないものに感じられて委縮してしまう。心は上に行ったり、下に行ったり、乱される。心乱されないように、写真を見ていたい、とは思う。皆の写真や、自分の趣味の写真を撮られる方の写真を見るのはとても楽しいことだ。

それでも気持ちというものは、ただひとつの方向だけに動いているわけではないものであって、誰かに見てほしい気持ち、恥ずかしい気持ち、写真と言葉とセットで見てほしい気持ち、むしろ言葉や文字を見てほしい気持ち、翌日になんでアップロードしてしまったんだろうという後悔する気持ち、あるいはするんじゃないかという気持ち…。しかし、それぞれがちぐはぐな気持ちであっても、やはり自分で前へは動いてみようとするのだ。私はここにおいて写真によって動いている。生きている。生かされている。少なくとも、Web上の一部に、薄明という名義で、どうやら写真を撮ったり文字を書くのが好きな人間として。

アップロードする。する前に言葉が浮かぶものがあればそれも添える。また、時間をおいてこうやって、Twitterでは長すぎる文を打ち込んだりもしてみる。前にも書いたがこれもまた私の自分自身(自分の写真)との向き合い方のひとつだ。ちゃんと最後まで読む人は居まいと思っていたけれど、意外にもリプライをいただくことがあって驚きと喜びが湧いた。私は似たようなことを何度も書いてしまう癖があるにも関わらず、やはり人間なので考えも少しずつ変わっていったりする。そういうことを記録しておくのにこういうツールは、SNSとは違ってまた必要なのだと考えている。

Nikon F-401QDで卯辰山花菖蒲園へ行ってきたが

以前Nikon F-601QDをジャンク函から買い上げ、問題なく使えたことがあったが、この度Nikon F-401QDを知り合い(というか前の職場の上司)から譲り受けた。私は借り受けた、と言っているのだが、先方が譲ったのだと主張するので、譲り受けたということにしておく。レンズはAF NIKKOR 35-70mm F3.3-4.5と、F-601のあとに購入した安めのズームレンズとスペックは全く同じなのだが、生産時期が違うためか形状が異なる。まあ使い勝手は似たようなものである。

残念ながら長いこと使われずにいたらしく、私に譲渡する前にフィルム蓋を開けたら閉まらなくなったという。確認すると、蓋を留めるためのプラスチック製の爪が折れていた。そのあと写真の文明堂さんにも見てもらったが、これは強度的に接着するのは難しいとのこと。蓋が開かなければいい道理であるので、私はテープで固定した。なんというか節操のない貼り方である。せめてテープの種類を一種にするべきだったろうか。

とりあえずテストフィルムにC200を詰めて金沢の街を撮り歩きながら、浅野川方面へ向かう。そしてそのまま上流へ向かい、天神橋のあたりから卯辰山へ入った。前に頂上の見晴台まで歩いたことがあったが、6/1のこの暑さで徒歩はきつい。とりあえずここまで来たのだし、菖蒲園の様子を見に行ってみることにした。それでもそれなりにきつい坂を上る羽目になる。

テストフィルムは今日6/4に無事現像も上がって来て、カメラには問題はなさそうと判断できた。卯辰山あたりの写真を数点挙げておきたい。

予め言っておくと、菖蒲は殆ど咲いていなかった。例年でも中旬以降が見頃だそうだから、早すぎたのである。紫陽花もまだだ。緑ばかりが広がるが、一部はこうして早くに咲いている品種もあった。橋に這いつくばるようにしてシャッターを切る。

F-401のシャッタースピードと絞りは、スケルトンカバーのかかった珍しいデザインの軍艦部(一部)で設定する。しばらく操作に慣れずもたついていたが、段々とやりやすく感じてきた。F-601とはまた違う操作感である。401は絞りリングを回して…という使い方はできないのだろうか。

開放気味で撮影する。花びらの白い部分がやや白にじみを起こしているのは開放だからか?葉はくっきりとシャープに出ている。この菖蒲園は坂道になっているので、写真としての構図はこういう撮り方をすると、妙にかたがっているように見えてしまう。

紫陽花の少し色づきはじめたものを撮る。Twitterには「汗蒸す山かげ、独り見詰めるも、まだ若し紫陽花のいろ」と言葉を添えている。言ってみれば安レンズといえば安レンズなのだろうけれど、光の具合もちょうどよく揃っていたためか、写りとしては文句なし。後ろの丸ボケのちらちらとした感じも面白いかなと思う。暑かったので、日陰でぱたぱたと首元を仰いでいた。

全体を見るとまだこんな感じだ。菖蒲もたくさんあるが、私の好きな紫陽花も多く植えられているので、また月末あたりにでもお邪魔したい。毎回歩いてきているが、たまには車で…いや、そうなると停められないかもしれないし。

36枚、全部失敗らしい失敗はなし。今日結構連投してしまったが、またおいおい上げていきたい。本当はNikon S2のACROSも現像は上がってきたのだが、データ化はせずに現像だけお願いしたため、また時間があるときに取り込んでいかねばならない。次の休日に気力あらば。

 

脳内で描くこととシャッターを切ることについて

撮影のラフを描ける人を尊敬する、本当に。

Twitterで書いたが、最近物事を忘れやすくなっているし、一度文字に起こしたのをまたかきなおすのも面倒であるので、ここに書いておきたい。Twitterはライフログのように使ってしまっているけれど、いつかすべてのデータが消えるだろうし。

事前になにかイメージをしたり、形にしたりということが本当に出来ない、これは自分の頭のつくりがそうなっていないくらいにできない。特に複数個のオブジェクトを同時に想像の世界に設置するということが難しい。例えば、背景+主題+副題というものを脳内でセッティングすることが難しいのである。

なので、撮影のラフ、例えばこういう場所でモデルをこうで、モデルの衣装はこんなので、こんなものを持たせて、光の感じはこうで、色合い(フィルム)はこうで…と詰めていくことができない。

私は人物撮りはしないのだが、それ以外の撮影でも大体がその場行き当たりばったりで、あまり考えずに撮ってしまうことが多い。よく言えばその場の直感に従い、一発で勝負を決めているとは言えるが、どちらかというとツメが甘いのだ。

そんな私からすると、ラフを脳内に描ける人に対して、どうあってもその世界を見ることができない圧倒的に分厚い壁が、窓もなく目の前にあるように感じる。散々他人の能力に追い付くには相当な努力が必要なことであったり、また人には向き不向きがあったり、努力すること自体が才能なのであったりということを思い知らされてきたが。

私がシャッターを切る時、いつも同じ気持ちではない。気がついたら切っているときもあれば、軽快にスキップをするかのようにかろやかなときもあれば、ただ無機質に切るときもあるし、これを撮ってもきっと撮らなくてよかったなと思うだろうなんて考えながら撮ることもあるし、自分なりに考えに考えて(切らない時もある)切るときもある。その軽重と結果もまた別に比例しない。

しかし時折得られる、「静かで、撮りたいと思った瞬間にファインダーを覗き、落ち着いた、私という絵具がその場の空気に滲み、ゆるやかに繋がっていくかのような感覚」でシャッターを切ると、それはまた言葉を生んでくれたりもする。

先にアップした「口唇」なんかもそうだ。過去に何度かそういうようなことはあった。少ないけれど。

そういう写真を撮りたい。

葬送

Nikon FM2, Lomography 100 Color Negative

 

時間の葬送ごとに花添へて少女は奔り去ってった

まゝごとにゐた時間はその惜別に閉じられて、

わたくしの足元に色を少しづつ落として去ぬ